わかりやすい文章とは?|文章は“しりとり”であり、論文は“漫才”である


 「わかりやすい文章」とはなんだろう。誰でも理解できる言葉で書かれたもの? 余白を設けることで読みやすさが重視された構成の文章?

 さまざまな視点が考えられますが、ここで取り上げたいのは、その「順序」。2ヶ月ほど前に読んだ『シカゴ・スタイルに学ぶ論理的に考え、書く技術』から引用しつつ、改めて考えてみようと思います。

 

 

既知の情報をつなげて、未知へと至る道を描き出す

 筆者曰く、 “論理の本質とは言い換え” であり、ある文章において前の文と後の文の意味は基本的に同じになると言う。まったく無関係のトピックが急に登場したらびっくりするし、やたらと「また」が出てきて話題が二転三転すると集中できない。

 そこで、書き始めのパターンのひとつとしては、【共有された前提】から始まる形が挙げられる。いきなり未知の情報から始まっても、何が何やらわからない。誰もが知っている情報を冒頭で提示しつつ、続けて関連する情報を矛盾しないように展開していく流れとなる。

 書店で目に入る「入門書」の類を開けば、大抵はそのような構造になっているのではないだろうか。どのような専門分野にも、「常識レベルの知識」や「聞いたことのある単語」の1つ2つはあるはず。それらを例示し、時に比喩を駆使しながら説明し、より深い知識へと誘っていく流れ。極端に言えば、おじいちゃんにパソコンの操作を教える感じ……と書いて伝わるかしら。

 要するに、文章はすべて、既知の情報から未知の情報を導き出す連続である、と。

 

「古い情報A」+「新しい情報B」 → 「古い情報B」+「新しい情報C」

 

 言い換えれば、ある一文の中で述べられた新しい【未知】の情報は、次の文中では古い【既知】の情報になっている、ということだ。例えば、次のような書き始めの文章があったとする。

 

〈今日は良い天気だったので、都内の河原を散歩した。〉

 

 これを読めば、読者は「ああ、確かに今日、都内は良い天気だったね」という【共有された前提】に納得しつつ、「この人は河原に行ったのか」という【未知の情報】を同時に認識することになる。そして続く文章は、こうだ。

 

〈日差しを浴びながら気持ちよく土手を歩いていたら、エ口本を拾った。〉

 

 この文章が目に入る段階では、前文を読み始める前に【未知】だった〈河原で散歩〉は【既知の情報】であり、前文の〈天気〉と同様に【共有された前提】となっているはずだ。そして、新しく〈エ口本を拾った〉という【未知の情報】がもたらされていることがわかる。

 さらに続く文章ではおそらく〈エ口本の内容〉か〈エ口本を開くか否かの葛藤〉、あるいは〈拾った瞬間を知り合いに目撃された〉〈そのままアンダーザブリッジでゴートゥーヘブンした〉といった新情報が示されると考えられる。

 ここまでは基本中の基本ではあるものの、このように、順序立てられたわかりやすい文章には「しりとりの原則」がある、という事実の再確認として。

 

ひたすらボケとツッコミの応酬を繰り返す、孤独な論文執筆

 「しりとりの原則」は今この瞬間に書いているようなブログはもちろん、短めの日記やTwitterでの感想ツイートなど、あらゆる「文章」に適用できる原則だと言える。文章の長短や書き手の巧拙はあれど、最低限「伝わる」文章には必要不可欠な構成だ。

 これをさらに発展させたのが、いわゆる「論文」形式の文章。本書の小見出しでは “論文は漫才のように書く!” と大きく示されており、思わず納得してしまった。実際に大学で卒業論文を書いたことのある学士さんの中には、ピンと来る人もいるのではないかしら。

 

 そも論文は「 “” 理的な “” 章」の代表格であるゆえに、誰にも明白なツッコミどころが多くては体裁が悪い。だからこそ口頭試問なんてものがあるのだし、どこかで論理が破綻していれば突っ返されても文句は言えない。まあ「日本の文系大学の卒論はヌルすぎィ!」とか散々言われてますし、自分の卒論を読み返した限りでは偉そうなことは言えないんだすけどね!ね!

 特定のテーマについてひとつの「結論」を目指し、ひたすら文章を紡いでいく「論文」はある意味で、文章における「しりとり」の究極系とも言える。【共有された前提】を導入部として始まり、先行研究を順々につなぎ合わせつつ、その道中で自らの調査研究内容と私見をパズルのピースのように埋め込んでいく作業。

 

 説得力ある「論理」を組み立てるには「事実」が重要なファクターとなるが、それだけでは完全とは言えないケースもある。その「事実」へと至る調査方法の妥当性や、それ以前に述べられた内容との矛盾点など。穴は探せばいくらでも見つかるものなので、質の高い論理的文章を書き上げようとするのなら、なるべく穴を減らさなければならない。

 その「穴」を塞ぐ考え方が「ツッコミ」であり、万能フレーズ「なんでやねん」である。自分で示した「ボケ」こと「事実」に対して自ら「なんでそう言えるの?」とツッコミを入れていく。ツッコミに対しては別の「事実」を示したり、比喩によって説得力の補強としたり、権威ある先行研究を証左として引用するなどによって対応する。

 このような「ボケ」と「ツッコミ」の繰り返しによって文章の説得力は高められる。なればこそ「論理的な文章」を描き出すのに有効だ、と筆者は示しておりました。これは会社や学校で日常的に書く文章はもちろん、ブログなどでも使える基本的な考え方だと言って間違いないと思う。

 

 特に最近、批判を集めがちなブログ記事について言えば、確かに極論だったりセンセーショナルなトピックを扱ったりすることで燃え上がることも否めないけれど、それよりも文章中の「しりとり」がお留守になっているケースが結構あるんじゃないかしら。

 例えば、自分に都合のいい事実だけを抜粋したエピソードとなっているとか。周囲の視点が皆無だとか。自分にとっての「当たり前」が世間にとってもそうだと気付かず、説明不足になっていたとか。いずれにせよ【共有された前提】が抜け落ちていたり、「しりとり」がうまくつながらずツッコミどころ満載の文章になってしまったりしている印象を受ける。

 

 自分としては、ブログの本質は「メディア」よりも「日記」に近いものだと考えているので、すべての文章に対して「論理」を求めるのもおかしいとは思う。

 けれど、やはり他者の見える場に公開している以上、そしてそれが何らかの意見表明である以上は、最低限の「しりとり」でもって説明しなければ、ツッコまれても文句は言えないのではないかしら。むしろ、「ツッコまれるのはありがたい」まである。たとえ口が悪かろうと、見知らぬ他人だろうと、自分の「穴」を指摘してくれる他者の存在は何物にも代え難い。誹謗中傷はノーサンキュー。

 

 ──と、話がズレましたが、広い意味での「文章力」ではなく、まず何より「わかりやすい文章」を書こうとするのならば、「論理的な文章」を数多く読むのが効果的だと思います。「読者目線」や「語彙の選択」といった小技も前提として必要にはなるけれど、まず第一に「文章」に多く触れ、構成・展開を意識して読み解く癖をつけること。

 そういう意味では、本書『シカゴ・スタイルに学ぶ論理的に考え、書く技術』も選択肢としてはアリアリ。あと他には、「現代文の問題集」の類も意外と効果あるんじゃないかしら。高校時代に使った赤本とか、多彩なジャンルの文章・評論が収録されているので結構参考になると思ってるんだけど、どうでしょう。

 

 その系列の評論集で、購入したはいいものの積んでいる(というか、ボリューム満点で読み切れていない)本が何冊かあるので、どこかのタイミングでブログで紹介すると思います。またの機会に。いずれ。たぶん。きっと。おそらく。

 とまれ、文章を書くに当たって「しりとり」「漫才」という考え方を試してみるのも悪くはないんじゃないかしら。割とパズルみたいでおもしろいっすよ……と書いているこの文章にもツッコミどころが結構あるのでしょうが。特に後半とか。

 

 

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