「17:00」の空気感が好きです。



 ふとスケジュール帳を開いてみれば、いつの間にやら年度末。会社勤めをしている友人と飲むと、「決算月だー」「残業だー」「おうちに帰してくだちゃい……」と悲壮感に満ち満ちた表情でジョッキ片手にうつむき気味。わかるわ。強制的な休日出勤のおもひで。つらい。

 一方で外に目を向けてみると、少しずつではあるものの、日没の時間が遅くなってきたように見える。この文章をパソコンに打ち込んでいる今現在は、日曜日の18:00前。真冬の時期には17:00の段階で既に真っ暗だった空も、まだほんのり明るい。

 今日の空は、曇り色。1日の終わりを感じさせる、夕焼けに染まる空も好きだけれど、雲に覆われた灰色の空が徐々に淡い紺色へと色を変え、黒へと染め上げられていく様子も悪くない。刺すような橙が目に入る夕暮れとは違って、緩やかに、落ち着いた変化を眺めることができる。

 ──とそこまで書いてみて、自分はこの「17:00」という時間が思いのほか好きらしい、ということに気づいた。空の色に限らず。昼と夜を分かつ境界であると同時に、その日の役目を終えた人たちが家路へと向かう時間帯。ある意味では、1日のうちで最も多彩な「色」を目にすることのできる瞬間なのかもしれませんね。

♪からすと いっしょに かえりましょ

 おおよそ15年前。自分が小学生だった1990年後半〜2000年くらいの記憶を掘り返してみると、「17:00」という時間はひとつの境界線として、そこにあったように思う。

 地域や季節によっても差があったはずだけれど、「17:00」は自治体のチャイムが響き渡る時間。“夕焼け小焼け”のメロディが周囲に鳴り響き、それが帰り支度をする合図だった。

 公園や空き地、裏山などの外遊びをしていた日は、ボールなどの類を片付けて。友達の家で集まっていた場合は、その家のお母さんが「そろそろかえりなさ〜い!」と声をかけに来るタイミング。記憶にあるのはそんな、その日の「終わり」を伝えるチャイムの存在。

 この「1日の終わり」という境目の時間帯を、幼い自分は当時から意味のあるものとして認識していたように思う。その頃には既に複数回の引っ越しと転校を経験していたこともあり、たとえ小さなものでも「別れ」には敏感だったので。

 “夕焼け小焼け”は1日の区切りではあるけれど、それだけじゃない。家に帰って、晩ごはんを食べて、眠って目を覚ませば、その“昨日”と地続きの“明日”が待っている。17:00のメロディは暫定的な「終わり」に過ぎないことを、幼心ながら意識して聞いていたのかもしれない。だから僕は、その音割れした機械的なメロディが響き渡る中で、「またあした」を言うのが好きだった。

 何度も倒して、転んで、ぼろっぼろになった自転車に跨がる帰り路で思うのは、楽しかった今日と、楽しくなるだろう明日のこと。それゆえに、ロコちゃん*1の台詞はとても身に沁みるのです。明日は、も〜っと楽しくなるよね!ねっ、ハム太郎!\へけっ!/

 \へけっ!/ってなんだろう。

カラスの鳴き声は、ラストスパートの合図

 小学生の頃には帰るタイミングだったチャイム。それもちょっと成長すれば、活動時間も自然と長くなるもので。それは「1日の終わり」ではなく、また違った意味での“区切り”となっていったように思う。

 例えば、中学・高校における「17:00」と言えば、部活動が後半戦に向かうくらいの時間帯。周囲も暗くなり始め、「おらー!てめーら!ラストスパートだ!気合入れていくぞ!」と奮起する合図。そういえば、暗くなると自然とテンションが上がる人っています?僕は妙に元気になるんですが。

 昼飯後の眠さもなくなり、場合によっては“おやつ”的なものを摂取して、よっしゃ!これからや!というタイミング。その時間になれば意識をせずとも気分が高揚し、活動・練習に特に集中できた時間帯であったようにも思う。部活のゴールデンタイムのような。

 それは、社会に出て、企業に入ってからも同様だった。会社・職種によっては仕事を終えて事務所に戻る時間、あるいは退勤に向けて後片付けを始める時間帯かもしれないけれど、自分たちにとっては、むしろそこからが本番。

 眠気も空腹も吹っ飛び、ようやっとエンジンがフルスロットルになるのが、17:00。上司から「いい加減に帰って来い!」とツッコミが入るか入らないかのタイミングまで、どれだけの作業をこなせるかが勝負となるのです。定時?何それ食べれるの?

 部活にせよ仕事にせよ、「追い込み」のタイミングでは高揚するのが自分の性。いよしゃー!やったるでー!と熱意を持って取り組むことができ、特に楽しんで動きまわることができていたのも、この時間帯だったように記憶している。秋〜冬の時期だと、外気もピリッと変わるんだよね。日が沈みかけ、冷気が押し寄せてくることで、自分の中のスイッチも入る感じ。締め切り前に本気出すタイプでした。当時は。

変化の起こる時間帯、ハレとケの境界線

 おそらく自分は、目に見えて「変化」が現れる時間帯として、この「17:00」が好きなんだと思う。

 喫茶店の窓際の席から通りを眺めていても、視界に入ってくる人は非常に多彩。買い物袋を持って家を目指しているだろうご婦人に、ネクタイを緩めて歓楽街の方へ向かうスーツ姿のお父さん、これから夕食を食べに行くっぽいカップル、カラオケから出てきた高校生の集団などなど。その多くが、浮き足立っているようにも見える。

 帰宅ラッシュでもあるこの時間帯。じゃあ、同じくラッシュ時の朝はどうなんだろう?と思ったけれど、朝の街って割と単調というか、人波の「流れの方向」が決まっているのよね。基本、大半の人がスーツや学生服に身を包み、同じ電車に乗り、目的地である“会社”や“学校”に飲み込まれていく感じ。夕時と比べると、画一的に動いている感じが否めない。

 その点、17:00以降は、街中を歩く人の「流れ」がごちゃごちゃしていておもしろい。同じ会社や学校から出てきても、向かう場所は朝出てきた自宅とも限らない。ある人は飲みに行き、ある人はフィットネスクラブに向かい、ある人はライブハウスに行くような。出で立ち、持ち物、歩く方向、どのような集団かなど、見ていていろいろと想像ができて楽しい。

 もちろん、普段からそんな人間観察をしているわけではなく、なんとなくその雰囲気を感じているだけに過ぎないけれど。それでも、そのように各々が自由に動きまわっている様子が端々から見て取れる「17:00」が、僕は好き。「1日の終わり」であると同時に、わりかし自由な「夜の始まり」でもある、この時間帯が。

 1年の節目である師走が好きなのもきっと、そういう変化を感じ取れる「境界」の月であるがゆえなのでしょう。多くの人が同じように帰省する8月ではなく、正月を家族で過ごす1月でもなく、その「始まり」に向かう直前の、境界線上の月。

 うむ、やっぱり、夏コミよりも冬コミが良い。寒いけど。

 

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