「社会人になると勉強をしたくなる」のは、なぜ?


学生時代の自分は際立って勤勉ということもなく、ほどほどに学び、遊び、平均程度の成績をキープしていた、平々凡々な大学生でした。ちなみにそこは中堅の私立文系大学ということもあり、講義によっては不真面目な学生でも単位が取れてしまうような場所。

実際、友人にも、ギリギリでいつも生きていた(単位的な意味で)人がちらほらいました。……KAT-TUNかな? いや、他方ではちゃんと真面目に出ている人や、自分の関心分野に関してしっかりと勉学に励んでいる人も少なからずいましたとも! それは間違いございませぬ。

しかしそのような学生時代の各々の「勉強」に対するスタンスとは関係なく、社会に出て働いている彼ら彼女らと久しぶりに会うと、みんな思い思いにやってるんですよね。

 

──そう、「勉強」を。

 

仕事とは無関係の学習を始めていたり、芸術分野の知識欲に目覚めていたり。……なにがあった。どうしてそうなった。根が真面目な人ばかりだというのは知っていたけれど、みんな揃って働きながら「勉学」に励みつつ、口を揃えてこう言うのですよ。

「学生時代、もっと勉強しておけばよかった」と。

振り返ってみれば、そういえば僕自身も入社1年目はひぃひぃ言いながら働きつつ、週末は学生時代よりも読書に励んだり、ペン字の通信教育を受講したりしていた覚えがある。どうして、社会人になってからそうなる人がいるんだろうか。なぜ、学生時代に取り組めなかったんだろうか。

 

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「横並び」と「同調圧力」からの解放?

自分の通っていた大学は、ネット上でよく言われる「ウェーイ」系とは明らかに異なる、生徒全般がおとなしいイメージが強い学校でした。

とは言え、「おとなしい」からと言って「真面目」とは限らないわけですが。ざっと講義中の大教室を眺めてみても、多くの学生はどこかのグループに入り、講義中は勉強よりもヒソヒソと雑談に勤しみ、互いに協力して単位を取ろうという雰囲気が少なからずありました。

中には、重要な講義では友人の輪から外れて学びつつ、他ではグループに入って「雑談」に花を咲かせるような、立ち回りのうまい人も。その一方で、学部内での人間関係は重視せず、ほどほどの距離感の知人友人がいればそれで満足している──という、僕のようなタイプの人もそこそこいた様子。

いずれにせよ、そこには一種の「同調圧力」がありました。強制されるものではないものの、リア充として「花のキャンパスライフ」は送るには、若干の「不真面目さ」が不可欠。勉学よりも同期との「付き合い」を重視しなければならない文化が、そこにはあった。……別に大学に限った話ではないでしょうが。

 

要するに、とてもじゃないけれど「勉学に集中できる環境ではなかった」わけです。それを選択するのは各々の問題だし、勉学一本で励んでいる人も当然ながらいるので、「環境を理由にするのはどないやねん」という指摘ももっともなのだけど。

でも実際問題として、就職活動では「コミュ力」だの「サークル活動」だの何だのが必要になる、という事実もあったんですよね……。学問と、友人関係と、キャンパスライフ──それらのどこに比重を置けばいいのか、よくわからないままに流されていた人も多いんじゃないかしら。

そう考えると、就職後の「勉強意欲」はある種の反動なのではないかとも思うのです。それまでは「横並び」に勉学と友人関係を考慮しなければならなかった(と思い込んでいた)環境から解き放たれ、「よっしゃー! 勉強したるわー!」という謎の使命感に突き動かされる格好。

二宮の金さんはやれやれ顔で呆れているかもしれないけれど……「生涯学習」なんて言葉もあるくらいだし、学び始めるのはいつからでも遅くないのです。れっつすたでぃー。

 

「知らない」を知ったから?

冒頭でなんとなく大学の話から始めたので、なんとなく大学と結びつけてみましたが……。でも実際には「同調圧力」なんてものはなく、ただ単に「社会」という環境に触れたことで「勉強しないと!」と意識するようになっただけ、という見方もできます。

学生時代には「先輩後輩関係」なんてものもありましたが、ぶっちゃけ、数年程度の年齢差なんて誤差レベル。入社すれば自分の両親と同い年かそれ以上の上司や取引先とやり取りすることもあるし、会社に所属していようがいまいが、稼ぐためにはさまざまな人との付き合いが必要になってくるものです。

 

そこで実感するのは、「自分って、こんなにおバカだったんだ!」という “青さ” 。

 

知識量やコミュニケーション能力の問題ではなく、世に数多存在する「大人」たちと自分とでは明らかに異なる、「経験」の格差。そこで自分が「知らない」ものを知り、その差を少しでも埋めるべく、「学ぶ」ことのモチベーションにつながるわけです。

改めて考えてみると、どこでも声高に重要性を叫ばれている「経験」とは、ある物事を自分の身で「知る」ことではなく、それ以前に「『知らない』を知る」ことなのではないかと。若い頃からアホだという自覚がある人は、自分を客観的に見れるから、強い。

 

もしかして:現実逃避

その一方では、あまりにも仕事が忙しすぎて、「現実逃避」のために強迫観念的に勉学に励んでいる人もいるかもしれません。──激務過ぎてヤバい。休日もろくに休めない。趣味をやっていても心が落ち着かない。……そうだ、勉強しよう──みたいな。

趣味をやっていても息抜きにならないのは、それが「無駄」だとわかっているから。ソシャゲーをポチポチしたところで得られるのはレアなデータくらいだし、あまり心を動かされる創作物に触れるとかえって精神的に疲れるし、身体を動かす趣味なんてもってのほか。

そこで、「将来的にどこかで役立つかもしれない……!」という「勉強」にシフトする格好です。それが役立つ可能性のあるものである以上は無駄だとは言い切れないし、休日の過ごし方としては有意義に見える。健全かどうかは、その人の精神状態にもよると思うけれど。

ただしそこで即効性を求めた結果、胡散臭い自己啓発書や、為にならなそうなビジネス書に走ってしまうのは、ちと怖い。どれとは言いませんが、 “そういう類” の本は少なからずあると思うのです。……もちろん、何が誰の役に立つかなんて、読んでみないと実際にはわからないけれど。

 

もしかしたら、「現実逃避」的な勉強意欲は赤信号なのかもしれない。

 

人のやり方にケチ付けるつもりはありませんが、せっかくの勉強意欲は前向きに生かしたいし、自分の成長がわかるような学びを得られるようにしたい。知識が身についていく過程だとか、物事が理解できるようになっていく実感ができる形で。

その時々の興味関心によって、五月雨に知識の「つまみ食い」をしていくのも悪くない。普段の仕事が忙しければ、計画的に勉強を続けるのも難しいと思うので。

でもそれとは別に、それとなくゴール地点や目標設定をしたうえで、継続的に「学び」を続けていくのも悪くないんじゃないかな──とも思うのです。それまでの学校生活でできなかった分、自分の「気になる!」を、自由かつ徹底的に掘り下げていく形。

 

二宮の尊ちゃんも仰るように、 “大事を成さんと欲する者は” なんとやら、です。

 

 

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