企業や学校、社会の「型」にハマって生きることについて


 社会の一員である以上、誰も彼もが様々な「」の中で生きている。

 企業や学校、地域といった集団・共同体も「型」の一種だし、公共の場所で守るべきとされるルールやマナー、モラルといった目には見えない「型」も存在する。さらにその上位には、「法律」という大きな縛りもある。

 それら広い意味での「型」は、社会の成員として生きていくには「ハマらなくてはならない」ものであり、同時に「ハマる」ことで生活を豊かにする効力を得られる(とされる)ものだ。

 普段は家計を圧迫する各種税金だって、目に見えないところで自分も日頃からその恩恵を受けていることは否めない。また、食べ物・既成品を買う商店や、公共交通機関などを利用するにあたって対価として支払うお金だって、ひとつの「型」であることに相違ない。

 金銭を支払うことで得られる商品やサービスは、社会に属する僕らが各々の役割を持っており、それを互いに「代行」し合って生産しているとも言える。

 誰もが作物を作ることはできないし、TVやPCを組み上げることはできないし、世の中の事情をつぶさに把握することなどできない。だからこそ、「労働」として自分の役割をこなして賃金をもらいながら、自分ができないことはお金を支払って入手している。

 先進国だろうが発展途上国だろうが関係なく、人として生きる以上は大多数の人間が共同体の恩恵に預かっている──というのは、おそらく当たり前のことなのだろうけれど。

 そんなでっかい話ではなく、自分の身近にある「」について思うことを、ちょいちょい書き連ねてみようと思います。

交換不能な、生まれたときからハマっている「型」

これっくらいの♪ おべんっとばっこに♪
おーにぎりおーにぎり♪ ちょいとつーめて♪

 おなじみ、「おべんとうばこのうた」*1。たとえば、1人の「人間」をこの歌における「おべんとうばこ」と考えてみる。そこに詰め込む「おかず」を肩書きや属性といった「要素」とした場合、アンギャー! と生まれた時点でそのいくつかはすでに決まっているんじゃないかしら。

 例えば、。諸々の条件をクリアすれば「国籍」は変えることができるけれど、自分が生まれたとある国で成長してきた経験があれば、そこで過ごしてきた文化や習慣、意識といったものは、一生ついてまわるものだと思う。具材的には、日本人はご飯かしら。

 もしくは、血縁。地縁、住む場所は移動することで変えることができても、生まれ持った両親の存在は変更がきかない。それによって苦しめられる創作物なんかも結構ありますが、良くも悪くも「かけがえないもの」であることは間違いない。梅干し?海苔?

 これらは自意識として変更が難しいだけでなく、周囲からの評価にも直結するものだ。実生活においてはあまり影響はないかもしれないけれど、要所々々で意識せざるを得ないものでもある。「◯◯人だから〜〜」というレッテル貼りは、プラスにもマイナスにも働きうる。

 逆に考えると、◯◯人であることはそれだけでアイデンティティのひとつにもなるので、交換するなんて考えるほうがアホらしい、という人もいる。

 ただ、先ほども書いたように、それによって苦しむような人も少なくなく、「型」に左右されない自意識は往々にして必要となる場合があることを、頭の片隅に置いといても損はないと思う。

人生の王道?義務教育→受験→就職活動→会社員

 先日、こんな記事を思いつきで書きました。毎年、ある時期になると一斉に始まる新卒者向けの就職活動も、一種の大きな「型」であると言っていいと思う。

 全国の学生が一挙に就活サイトに登録し、何十社にもエントリーし、合同説明会に参加しながらセミナーで自己分析・ES添削・面接の方法論を学び、選考に挑み、積み重なる「お祈り」の列を通り過ぎながら「内定」を目指すさまは巡礼者のよう。ここまでテンプレ。

 このような流れを問題視する議論は、たびたび取り上げられるものでもある。就活中の学生からも「本当にこんな感じでいいのん?」という声をしばしば耳にする。

 他方、最近はネットを活用した各種マッチングサービスなどもあり、前と比べれば「就職」へ至る過程が多様化していることもひとつの事実。それでも、大半の学生が一様にリクルートスーツに身を包み、メモ帳片手に説明会に臨む姿は大きな流れとして、「型」としてそこにある。

 どうしてこの大きな流れが学生の「型」の最大手として存在しているかと言えば──企業や就活ビジネスの視点もあれど──、それが最も確実な手段であるからだと思う。大勢が横並びに同じ作業に取り組み、その中で優劣を競う・マッチングを図るという手段が。

 もちろん、「就活は正解のないテストだ」という指摘もある。それまではペーパーテストで成績を見極め、その評価を絶対的なものとして格付けされ成長してきた学生たちが、それまでとは全く異なる、目に見えない評価制度の前に動揺するような格好。

 いくら成績が優秀でも、基準はそこではない。「優等生」と「企業が求める人材」はイコールじゃない。それまでとは別の「型」の中にぶっこまれたと言えなくもなく、それで挫折を味わう人も少なくない*2正解はひとつ!じゃない。

 にもかかわらず、疑問を持たずに就職活動の波に乗る学生が大多数であるのは、それまでずっと大きくも小さな「型」の中で育ってきたからなのではないかしら。

 クラブなどの課外活動はあっても、長い時間を過ごすのは狭い教室内。そこでのカーストを気にしつつ、安定した学校生活を送るために自らの「キャラ」を設定し、尖りすぎず程々の立ち位置で「成績」で評価され続ける義務教育の6年間。

 進路選びも、よほどの能力や思いがなければ選択肢は限られてくる。“とりあえず進学校を目指す”のか、“とりあえず就職する”のか。

 そこに強い意志を持つ人は少数派で、だいたいは「そうするのが確実(と言われている)」として、親や教師の提示する選択肢から消去法で選んでいるのではないかしら。もちろん、自分の観測範囲だけの話かもしれませんが。

 そのように、上から示される大きな「型」にハマることで育ってきた人からすれば、就職活動というやはり大きな「型」にハマった方が楽なのかもしれない。

 最初はこれまでとの違いに混乱しても、活動の中であるべき「型」に自分を当てはめていくような、一種の適応力が高い人は多いように思う。自分で新しく金型を“つくる”んじゃなく、自分を既存のフレームに“当てはめる”ような形。

 これも当たり前っちゃ当たり前の話なのだろうけど、自分が“つくる”側なのか、“ハマる”側なのかといった意識は大切なのでしょう。

 その前提として、大きな「型」以外にも選択肢があることを知っておくことはさらに重要だと思う。どうも学校内に閉じこもっていると、そのような別の選択が全く見えてこないので。

選択肢と多様性、「夢」という名の呪い

 なんというか、今はいろいろとモノも溢れているし、働き方や生き方についても次々と新しい可能性が示されて、多彩になり過ぎた「型」にてんやわんやしているように見える。

 「ノマド」や「ミニマリスト」といった言葉が話題になり、ある種の流行として取り上げられる一方で、それらに疑問を呈して一蹴するような人もいる。

 おそらくは、そのような「型」が合う人もいる一方で、全くハマりもしないような人もいるという、それだけの話。それを時代の「大きな流れ」にしようと言葉がひとり歩きしてしまったり、定義が曖昧であることで批判的な論調が生まれていることも否めないけれど。

 また、人はいろいろなものを見て、そこから何も選ばない状態でいると疲れてくるので、どこかに落ち着きたくなるんですよね。

 曖昧、中庸、灰色の状態であることは怖い。だからこそ、良くも悪くも「型」にハマらざるをえない。選んでしまえば、思考停止すればラクになる。

 そういう意味では、自分の望み、やりたいこと、将来の「」といったものもひとつの「型」であり、それは時に「呪い」ともなりうるものだと言える。僕はね、正義の味方になりたいんだ。

 ひとつのモノに縛られるあまり、にっちもさっちもいかずに押しつぶされてしまうような。だからこそ、根性論がまかり通るブラック企業では「夢」が語られがちなのかもしれない。もちろん、ゆえに夢を叶えた人は賞賛される。

 悩み続け、決められないのは怖い。でも、ひとつに決めてしまって身動きがとれなくなってしまうのも怖い。そうやって悩んでいる状態すら不安で仕方ない。

 結局のところ、周囲の刺激や影響から常に自分を変化させつつ、その時々の適切な「型」に当てはめることのできる人が最強なのかもしれない。

 その上で、自分の「型」が絶対であると信じきらずに疑いを持つこと。一定の期間は無我夢中で取り組むことが必要な場合もあるけれど、別視点は忘れずにいたい。自分に合う合わないの見極めも必要だ。都会で消耗する人もいれば、田舎で消耗する人もいる。

 白か黒かの中間で、常に“揺らぎ”続けることは難しい。ならば、その“揺らぎ”の振れ幅を考えて、その時点ではどちらに大きく振れているかを基準とし、「暫定評価」として自分の主張とする。

 もちろん、そこに落ち着き、納得してしまっては、すぐに「思考停止」に至ってしまう。そうならないためには、その後も“揺らぎ”を止めることはせず、折にふれては「考える」ことを意識し、“揺らぎ”続けること。バランスをうまくとりつつも、自身に問い続けていく作業が求められる。

「思考停止」のポイント〜自分で考え、“揺らぎ”続ける - ぐるりみち。

 長々と書いてきて結局、何も言っていないように見えるけれど、まあそんな感じっすよ。「これだ!」とハマるときには枠の中に飛び込んで、確信が持てないときはいろいろな「型」を見て回ってもいい。もち、自分でつくりだそうと挑戦してもいい。

 かと言って、優柔不断であり続けるのもよろしくない。試行錯誤、何事もバランス、充電期間。物は言いようだけれど、いつかどこかで思考停止=決断して「型」にハマる必要は出てくるのでしょう。そのタイミングを見誤って泥沼に堕ちるのが、一番怖い。

 

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