蛭子能収*1さんの著書、『ひとりぼっちを笑うな』を読みました。自身を「内向的」だと感じている人は、読めば共感できる点が多いかもしれない。
僕から見た蛭子さんと言えば、これまでは「漫画家なのによくテレビで見かける、変わり者のおじさん」という印象しかなかったのですが……。良い意味で裏切られたというか、「ぼっち」の心境を代弁してもらったような読後感がありました。これはいいものだ。
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「ひとりぼっち」も悪くないよ?
本書の「はじめに」で書かれているのは、蛭子さんご自身の経験談と、考え方。
なんでも、当人は「自分勝手」にやっているつもりはなく、周囲にも気を遣っているつもり。にもかかわらず、周りには “「蛭子さんのように自由気ままに振る舞いたい!」と感じている人が多い” という話を聞いて、驚いたのだそうです。
昨今の「友だち」偏重傾向みたいなものに、僕は日ごろから違和感を持っていたということがあります。
僕は昔からひとりぼっちでいることが多かったし、友だちみたいな人もまったくいませんが、それがどうしたというのでしょう? ひとりぼっちでなにが悪いというのだろう? というか、むしろ「ひとりでいること」のよさについて、みんなにもっと知ってもらいたい。友だちなんていなくていい。ひとりぼっちだっていいんじゃないかな。
本人は「哲学と呼べるようなものはない」と書いていますが、その一方で、「子どもの頃からブレずに持ち続けているポリシーのようなものはあるかもしれない」と。
そのポリシーが、自分と同じように内向的な人間、ひとりになりがちな人の指針になり得るものであるのならば嬉しい。だからこそ、本書を書くに至ったそうです。
本書は決して、「ひとりぼっちのススメ」のような内容ではありません。でも、「ぼっち」になりがちで、そのような自分の性格や、人付き合いに悩んでいる人にはおすすめ。「ひとりぼっちも悪くないよ?」と、ひとつの考え方を示してくれるような、優しい1冊となっています。
〝群れ〟の圧力と、グループの恐ろしさ
とにかく僕、蛭子能収は、誰かに束縛されたり、自由を脅かされることがなによりも大嫌い。誰もが自由に意見できる世の中こそが、一番いいと思っているから。人は、自由でいることが一番いいと思う。もっと言えば、自由であるべきだとも思っている。
そのためには〝群れ〟のなかに、自分の身を置いてはいけません。なぜかって? それは、無言の圧力を感じるのは、その人が〝群れ〟の一員でいるからです。
たびたび「自由が一番!」と書いている蛭子さん。
本文では、震災時の「絆」「がんばろう」 といった言葉や「不謹慎」という批判に対して、 “個人の考え方や感じ方、ルールは人それぞれなのだから、それは尊重されるべき” という旨の意見を述べています。
基本的には、他人がどんな態度を示そうとも、どんなことを言おうとも、それはその人の自由であって然るべき。もし変なことを言っている人がいたら、「あれ? あいつはなんだか変なことを言っているなあ」というぐらいの感じで受け止めておけばいいんですよ。人がしゃべることは自由だから、それを止めることは誰にもできない。だから、「それは不謹慎だよ」って言っても仕方ないし、その人はそういう考えなのだなって思っておけば十分です。
考えてみれば、日常生活ではもちろんのこと、インターネット上ですらこういった傾向があると思うんですよね。
「日本人だからこうあるべき」「その考え方はおかしい」「おまえは何を言っているんだ」という意見をしばしば目にする印象。各々の発言が自由である以上、そのような反論も認められるべきではあるのでしょうが、それがどうも過剰な叩きや炎上に発展していることは否めない。
個人的には、異論・反論を言葉にして発信することそれ自体は悪いことではないと思います。ただ、それを直接的に罵倒したり、関係のない揚げ足取りにまで発展させるのはやり過ぎなのではないでしょうか。そこには、「自分の気に食わない意見に対して一言ツッコんでやろう」といった考えがあるのかもしれません。
しかし同時に、 “グループ” に属しているがゆえの差別意識から生まれる批判もあるのではないか、と蛭子さんは書いています。
グループが恐ろしいのは、そのグループ内の話だけではありません。大概のグループは、自分たち(自分たちのグループ)を他の人たちと区別しますよね。つまり、自分たちのグループに属している人と、そうでない人を明確に区別しようとするんですよ。
差別的な感情っていうのは、多くの場合「誰かを見下したい」という、人間のなかにあるネガティブな欲求と結びついているような気がしてならないんです。誰か自分より下の相手を作ることによって、自分が偉くなったように錯覚するということかもしれない。自分が優位に立つために、他の誰かを貶めるなんて、本当に愚かな行為だと思う。
「あいつは◯◯人だから」といった特定のグループに属している人間に対するレッテル貼りだけではなく、逆に「△△の人間じゃないから」といった、外側の人に対する差別意識。
それは人種や企業といった「集団」に限らず、「区分」や「肩書き」でも見られるもの。「年収いくら以下は〜〜」とか、「無職は〜〜」とか。個人を構成する一要素でしかない部分を取り上げてやたらと批判する様子は、見ていて気持ちのいいものではありません。
蛭子さんも、 “人間の魅力というのは、その人が所属している集団から生まれるのではなく、あくまでもその人自身の技量や性格から生まれるもの” と書いています。仰るとおりだと思いつつ、それだって、本来は当たり前のことのはずなんですよね……。
目立ちたくない!……だけど、褒められたい!
できれば〝目立ちたくない〟僕ですが、誰かに〝褒められたい〟という気持ちはあります。やっぱり、誰かに褒められたら人は悪い気はしませんからね。自分が描いた漫画のことを、誰かに「蛭子さん、あの漫画は面白かったよ!」って言われたら、それは正直に嬉しい。あまり、その他の行動や言動で褒められることは少ないタイプですから……ポジティブな意見がほしいがために、漫画を描いているようなものですしね。むしろ、〝褒められる〟ことを目的に試行錯誤して、トライしてきたという気もしています。
僕と同じような内向的な人はそういう傾向が強いような気がしてなりません。できれば放っておいてほしい、できればひとりになりたいと思っている一方で、心のどこかでは、誰かに評価してもらいたいと切に願っている。
読んでいて思わず頷いてしまったのが、こちらの部分。
世間で目立つ存在になりたい、周囲の人を引っ張って何かをやり遂げたい──とまでは思わないけれど、それでも、どこかで誰かに認めてほしい──と。……端から見ると、めんどくさいだけかもしれませんが。
蛭子さんの場合はそれを「漫画」に求めつつ、このように書いています。
評価っていうのは文字で書いてあるくらいがちょうどいいんじゃないかなって、僕は思っているんです。文字で書いてあれば、たとえそれが自分の漫画に批判的な意見であっても、ちゃんとした〝批評〟になっているならば、しっかりと読みたくなる。「あ、こういうふうに思われているのか。じゃあ、機会があったらその意見も取り入れて作品を描いてみようかな」って、そこは真摯に受け止めます。
よいことも悪いことも、自分の漫画に対する感想や評価はすごく知りたいし、それを正しく知ることが、より面白い漫画を描くことにつながると思っています。多少批判されていようとも勉強になるじゃないですか。
ここでスポットが当てられているのは「漫画」ですが、僕の場合はそのまま「ブログ」が当てはまるんですよね。
大勢に称賛されたいわけではないけれど、自分の書いた文章をどこかの誰かに読んでもらって、できれば感想が欲しい。面と向かって褒められても素直に受け取れないし、批判されたら凹むけれど、それが「文字」ならば、自然に受け取ることができる*2。
加えて、蛭子さんが一歩先を行っていて、「なるほど!」と納得させられたポイントが、次の部分。
常に自分を相手が批判しやすいように持っていっているような節があるんです。あえて突っ込まれやすい感じに、自分を仕向けているということなのですが、そういうことを昔から自然とやっている自分がいます。
そこで効果的なのは、〝笑顔を絶やさない〟こと。
とりあえず、理由もなくニコニコ笑っていれば、みんないろんなことを言いやすくなるじゃないですか。言うまでもなく、ムッとしているよりは言いやすいですよね。だから、自分の欠点などは、いつもそういった笑顔にしている振る舞いから知ることがほとんどです。
とにかく、自分に対しての正直な意見がほしい。うわべだけの褒め言葉とかよりも、その人が本当はどう思っているのかをとても知りたい。ダイレクトに意見を聞くこともできない内向的な人間だから、そのために、自分から言いやすい雰囲気に持っていくしかないんですよ。
「相手がツッコミやすいように、あえて隙をつくる」と。これ、文章でちょいちょい試してはいるのですが、対面の会話で意識して行うのはなかなかに難しいように感じます。
でもなるほど、言われてみれば、僕は笑顔が苦手です。むしろ必要以上に他人の目を気にし、隙を見せないように振る舞っているらしく、どこか作り笑いっぽさが抜けていないという自己評価がある。もちろん、ダイレクトに意見を聞くのも躊躇ってしまう。
そんな内向性を持っているからこそ、「相手が言いやすい雰囲気を作る」というのは、たしかにそのとおりだと納得できました。言われてみれば当たり前なのですが、ほとんど意識できていなかったように思います。
他にもいっぱい!“ぼっち”を肯定する「蛭子哲学」
ここまで引用した以外にも、本書ではさまざまな場面と切り口から、蛭子さんの考え方が記されています。以下、何箇所か抜粋させていただきます。
自分のことを、あらかじめ低く、低く見積もっていたほうが、人生ってラクですよ。
自分で責任を取らずに、他の誰かのせいにしたり、社会のせいにしたりするから、世の中が生きづらいと感じるんです。本当のことを言うと、世の中なんて昔といまでそんなに変わりはないんですよ。自分ではあずかり知らぬ大きな力が働いて、いつの間にか生きづらい世の中になってしまった──なんてことはありません。
要は、その人自身の気の持ちようなんじゃないかな。
誰かのせいにするよりもまず、自分の気の持ちようが肝心。〝卑屈〟という自分自身の心の縛りから解き放たれない限り、絶対に〝自由〟になんてなれません。
「逃げる」と言うと聞こえは悪いかもしれない。とはいえ、自分のなかで限界がきているようだったら、そのときは迷わず逃げていいと思う。ときには逃げ出すことも必要ですよ。逃げてばっかりはダメだけど、人生のなかで何度かは、別に逃げ出してもいいんじゃないかなあ。僕は自分の経験からそう思っているんです。
こうして読むと、全体的にユルい文体だし、ツッコもうと思えばツッコめそうな矛盾もありそうなものだけど、それも含めて蛭子さんらしさ……なのかな。
この本を書くうえで、僕と同じように周囲の人たちから誤解され、群れから離れてしまう人たちに、自信や勇気を持ってもらいたかったという思いもありました。他人のことは尊重するべきだけれど、他人の目を気にする必要はないんだよって。ひとりぼっちでいることは、悪いことばかりではありません。悪い孤独は人をむしばむけれど、そうでない孤独だってきちんとあるはずなんです。だから、あなたはそのままでいい。自分のなかでブレることなく、自分の思ったとおりに生きていれば、きっといつかは、周りが認めてくれるようになるものです。
もちろん、すべてに賛同できるわけではありません。ですが、自分のことを内向的だと感じている僕にとっては共感できる点の多い、読んでいて何かがスーッと抜けていくような、すっきりするような、不思議な本でした。気になった方は、ぜひ手に取って読んでみてください。
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*2:その点、賛否両論、尖ったツッコミも当たり前の「はてなブックマーク」というシステムは、割と自分に合っているように思います。