喫茶店でイチャつく熟年カップルに見る“大人”の定義の曖昧さ


 平日のお昼すぎ。都内のベッドタウンの駅前にて。

 

 某コーヒーチェーンの喫茶店では、まったりとした時が流れていた。見渡せば、席の6、7割ほどが埋まっているくらいの混み具合。

 客層は、「高齢者」にカテゴライズされるだろうおじいちゃんおばあちゃんが大半で、あとは買い物帰りの奥様や、読書をする大学生がちらほら。その中に、無精髭を生やした無職が1人。わたしです。

 

 艦これをブラウザのタブで常駐させつつ、ぼーっとネットサーフィンをしていると、隣の席からは桃色吐息な空気が伝わってくる。またか。こちらは溜息吐息でっせ。

 そこにおわすは、おじいちゃんとおばあちゃんの熟年カップル。正確には「おじちゃん」と「おじいちゃん」の境目くらいかしら。ピンクピンクなオーラを滾らせつつ、あれよこれよとボディタッチをし、甘い言葉を囁く。聞いている、見ているこっちが恥ずかしいレベル。おうふ。

 

 ごめんなさい。
 こういうとき、どういう顔をすればいいかわからないの……。

 

「おとな」の ていぎが みだれる!

 平日昼間の喫茶店に入ると、3回に1回ほどの確率で熟年カップルと遭遇する。結構な割合だ。「あらあらうふふ〜?」な雑談に花を咲かせているならともかく、真っ昼間からあからさまにイチャつくのは…ちょっと……。

 

 「そんなこといってまたまた〜♪」「やぁだもぉ〜♪」という掛け合いは、若い男女のやり取りとして「リア充爆発しろ!」と突っ込まれかねないもの。しかし、そこにいるのはおじいちゃん&おばあちゃんである。触れ合っているのはシワとシワである。な〜む〜。

 まあ別にチュッチュしているわけじゃなし、端から見ればなんとも微笑ましい光景とも受け取れなくないので、大声で批判するほどの文句があるわけではございませぬ。いや、そりゃあけしからんけども。じっちゃんばっちゃんもリア充なこのご時世に、僕はいったい……ぬおぉぉおん。

 

 ただ、その様子を見ていると、人生経験豊かな高齢者とは言え、やっていることは若者とほとんど変わらないんですよね。「これだから若いもんは!」と怒られがちな若者と。

 場所や時間帯は違えど、男女で仲睦まじく触れ合いながらイチャつく様子は、放課後にマックでキャイキャイしている高校生カップルと何ら変わりがない。いや、若い分、そっちの方が激しいけど。さすがに胸揉み尻揉みは自重してください。盛り過ぎ。

 そんな、年齢とは無関係に愛を育むカップルを見ていると、「ぼくの夢見た “おとな” ってなんだったんだろう……」と思わずにはいられない。経験を積んで、歳をとっても、その行動に実は大差はないんじゃないかと。老いても同じ人間、そりゃそうなのかもしれないけれど。

 

 「おとな」の ていぎが みだれる!

 

あれ?大人も子供も変わらないんじゃね?

 公共の場での「マナーが悪い」と突っ込まれがちな若者。でも考えてみれば、その辺の問題だって、世代は無関係なんじゃないかと思える。

 

 電車では、甲高い声でバカ話をする女子高生がいれば、大声で雑談に興じるおばちゃん集団もいる。

 優先席では、当たり前にスマホをいじっているサラリーマンがいるし、ピリリリリ!と着信音が鳴って、そのまま携帯で話し出すおじいちゃんもいる。

 コンビニでは、袋に箸が入ってなかっただけで何十分もくどくどと文句を言う学生がいて、同じように、自分が満足するまで理不尽を責めるおばあちゃんもいる。

 

 どうもメディアの報道を見ていると、「最近の若者」を枕詞にそのマナーの悪さを問題視する声が聞こえがちだけど、街中で普段の様子を見ていると、そのような問題行動に年齢は関係ないように映る。

 少なくとも関東首都圏、東京・埼玉・茨城・千葉で過ごしてきた経験のある自分の観測範囲では、そこに年代の共通性は感じられなかった。もちろん、統計も何もない、個人の印象に過ぎませんが。

 

 一度、そのように思い至ってみれば、当然のようにも。「マナーの悪さ」や「公共の場での問題行動」は、「人間個人の要素」として語られるべきなんじゃないかしら。そこには、「おとな」も「こども」も関係ない。

 本当に世代に共通した問題性があるのであれば、それは社会問題として論じられてもいいかもしれない。だけど、データもなしに「若者ガー」「老害ガー」と言っているだけじゃ、ただ責任をなすりつけ合っているだけにしか見えない。

 

 みんな大好き、世代論。

 

誰もが認める「おとな」は存在しないのでは

 昨日、「『頭の良さ』に明確な定義がないのって、子供の頃からずっと同じように使い続けているからじゃないの?」という記事を書きましたが(「頭が良い」という言葉をアップデートしよう)、「おとな」の定義も同様なんじゃないだろうか。

 

 幼い頃から、「 “おとな” はかっこよくて、なんでもできるんだ!」という漠然とした「おとな」のイメージを抱き、憧れ、自分も自然とそうなれるんじゃないかと考えてきた。

 しかし、いざ成人してみれば、自分が「おとな」であるとは思えないし、それどころか、周囲の大人が、自分と何ら変わりない存在なんじゃないかとすら思えてきた。どういうこっちゃねん。無垢な僕の憧れた「おとな」はどこへ行ってしまったのん?

 

 そもそも、「おとな」の定義がはっきりしていない。というか、人によってばらばらなんじゃないか、まである。

 過去の記事では、 “相手を頭ごなしに否定するのではなく、かと言って全肯定するのでもなく、受け入れ、認めることのできる人” を、自分にとっての「おとな」としてみた。けれど、それは僕自身の考えであって、他の人にとってのそれは別の存在だとも言える。

 

 逆に、成人した人の素直さ、やんちゃさなどを「子供っぽい」として評価する場合もあるし、大人の語る「若さ」の多くは、未熟さと同時にポジティブな意味合いを含んでいるように見える。「若者」を語るとネガティブになるのに、なんでだろうね。

 「おとな」や「こども」に関する、漠然とした共通のイメージ――判断能力だったり、挑戦意欲だったり、純粋性だったり、達観した姿勢だったり――は、多くの人の間で共有されているものだと思う。

 けれど、それは「イメージのひとつ」でしかなく、「おとな」や「こども」そのものを定義する言葉とまでは言えない。具体的に、「これが “おとな” (こども)だ!」という定義は、各々に委ねられている。ゆえに、誰もが認める「おとな」なんてものは存在しないのかもしれない。

 

 なにはともあれ、リア充は世代を選ばないのです。結論。ふわふわした曖昧な「おとな」という存在を目指すくらいなら、具体的に「こうなりたい!」あるいは「ああはなりたくない!」という要素要素で考えた方が良さそうな気がします。はい。

 

 ところで、この文章を書いている途中で、

「そこのあなた!すみません、◯◯さんと仲がよろしいですよね?」

「あ、はい、何度かお話した仲で……」

というおばあちゃん同士の雑談が脇で始まって、

「じゃあ最近見ないってことは、◯◯さん、お亡くなりになったんですかねー」

「そうですねー、たぶん、死んじゃった感じですねー」

なんて結論が導き出されてたんですが、知人の死もポップに語れるこの感じ。これも一種の「おとな」なのかな……。

 

 

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