好きになる人、嫌いになる人、どんな人?


要旨

  • 人間、みんな違って、めんどくさい
  • 「好き」と「嫌い」は感覚的なもの
  • 人の持つ複数要素の総和として、大きい方の感情で好き嫌いを判断している
  • 類は友を呼ぶが、同属嫌悪もする
  • 好き嫌いの二元論より、要素を個別に見て判断する
  • 「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ!」

 

人間関係はめんどくさい

 得てして、人間関係は面倒くさい。大人になれば、他人に対する接し方、付き合い方、考え方も少しは変わるかと思っていた。けれど、20代も半ばに差し掛かりつつある現在、根本的な部分は何も変わっていない。……小さな変化は、徐々に積み上げられてきたとは思うものの。

 人間関係が面倒なのには、さまざまな理由が考えられる。思惑や価値観、思想や嗜好の違い、複数人で複雑に絡み合う確執や因縁。職場や学校といった、コミュニティにおける立場、公私の使い分け。性差による見解の相違、恋愛を伴ういざこざ――などなど。

 一言でまとめてしまえば、「人間、人それぞれ違うもんねっ☆」などという単純明快な話だとは思う。ところが、その “違い” は個人の差異では収まらず、集団内での連関や個人間で互いに向かい合う感情のベクトルが違ってくるなど、複数の要素が絡んでくる。だから、かったるい。

 

 複雑怪奇な人の感情、それを言葉にして表現するのは難しい。ボキャブラリーが貧相な僕のような人間ならば、尚更だ。けれど、ごちゃごちゃな感情を全部まとめて、大きな枠に分類するとすればそれは、「正」と「負」、2つのカテゴリーに分けられると思う。

 つまりは、ポジティブとネガティブ、「好き」「嫌い」の違い。至極単純な2つの感情について、ちょっと考えてみた。厳密には、どちらにも属さない「無関心」なんていうおもしろトピックもあるのだけれど、それはまた別の話。

 

僕らの持つ「好き」と「嫌い」の要件

 僕らがある人を「好き」または「嫌い」になるとき、その理由には、どのようなものが考えられるだろう。恋愛云々は抜きにして。「一目惚れ」のように直感的なものも少なからずはあるだろうが、その “直感” にだって、好意を抱く何らかの要因があるはずだ。

 例えば、見た目。かっこいい、かわいいといった容姿に限らず、服のセンスが良いとか、立ちふるまいや挙動に心惹かれるとか、なんとなく良い感じのオーラ・雰囲気をまとっているとか。そういった部分も挙げられるかもしれない。

 外見的要素の好き嫌いに関しては、誰の目にも捉えることができるため、まだわかりやすい。ある要素を好きになるその人自身の嗜好がそのまま反映されるため、周囲から見ても「そういうのが好きなんだー」というのが見て取れる。もしも後になって抱く感情が変わったのならば、自身の好みが変わったか、あるいは、相手の持つ別の要素に対する感情の方が大きくなってしまったと考えられる。

 

 とは言え、「見た目」は個人を構成する要素のひとつに過ぎない。僕らが誰かに対して「好き」か「嫌いか」を判断するに当たっては、その人が持つ要素の中から、自分の知っている要素 “だけ” を鑑みた上で、自身の中で総合的に判断していると考えられる。

 頭で考える論理――と言うよりは、「なんとなく」という感覚に近い好き嫌いの感情。それは、その抱く正負の大きさによって判断されている印象が強い。

 「人には良い面も悪い面もあって、あの人のこういうところは好きだけど、ああいうところは嫌い」という見方は、多くの人が念頭に置いているんじゃないかと思う。しかし、「感情」は時としてそのような論理的思考を放棄し、二元論で考え、決定することを促してくる。

 

 ということは、僕らが誰かを「好き」または「嫌い」と言うときには、その人の持つ要素を無意識に「好き」と「嫌い」に分類しており、その総和が勝った方の感情を認識しているのではないだろうか。

 それも、好きな部分が多いか、嫌いな部分が多いか、という単純な比較ではない。「容姿だけがずば抜けていれば、他がどれだけ不快でも気にならない」という人がいてもおかしくないし、「性格も見た目も全く問題ないけれど、食事中のマナーがダメダメだから嫌い」という人もいるかもしれない。

 このように、全ての感情を「好き」か「嫌い」にまとめてみても、その考え方や要件は人それぞれに違うものになる。これでさらに感情を細分化し、人間関係に落とし込もうとすれば、もう訳のわからないことになりそうで恐ろしい。人って、めんどくさいね。だけど、だからこそ、おもしろい。

 

自分と似ているから、違うから、好き?嫌い?

 僕個人に関して言えば、基本的に「嫌い」な人間はいない。何らかの出来事をきっかけに嫌悪感をめちゃくちゃ募らせるようなことはあれど、それも一時的なもの。しばらくすれば「そんなこともあったよねー」と、なんやかんやで元の関係に戻るのが常だ。

 自分が誰かを「嫌い」だと思うときは、主に同属嫌悪的な嫌悪感である場合が多い。過去の自分や、現在の自分の嫌な部分と似たようなものを見せられたとき、また、そのような行為によって自らが被害を被ったときに、より感情的になりやすい。

 逆に、自分とは違う、真逆の相手には好意を持ちやすい。性格とか、価値観とか、考え方とか。物事を楽しんだり、話していて刺激的なのは、自分とは反対の人間だ。ちなみに、彼らの行為によって自分が被害を受けたとしても、前者ほどは嫌悪感を持たない。

 

 第一印象と、その後の関係性の変遷や、ケースバイケースなのかもしれないけれど、個人的な傾向として、そんなものがある。これとは反対に、似たもの同士で集まることが好きで、真逆の人間とは相容れない、なんて人がいてもおかしくない。

 この辺りの志向性は、人によって特徴が現れそうで、おもしろそうだ。心理学系の講義でこんな話を聞いた記憶がおぼろげながらあるので、専門的な用語や明確なデータがあるのかも。……うーん、なんだっけ。

 

「好き」と「嫌い」に縛られないために

 こうやって、個人を「好き」か「嫌い」かの二元論で判断してしまうことは簡単だ。複数の人間関係を持つに当たっては、その方が効率的であることもわかる。

 けれど、どちらか一方で決めつけてしまうのは、一種の思考停止でもある。行き過ぎた「好き」は、狂信的な信者を生み出すし、過剰な「嫌い」は、全てを否定するアンチと化す。片方にブレてしまえば、逆の立場の視点の喪失に繋がり、論理的な検討や話し合いが困難になってしまうこともあり得る。

 特に、相手が見えづらく、希薄であるとはいえ、そこには紛れもない人間関係が存在してしまっているインターネット上では、感情論と印象論で他人に賛成・反対を示しがちだ。故に、偏向的なサイトが生まれ、成長し、そこに固有の信者とファンが同居することとなる。

 

 相手の姿がはっきりと見えないことによって、ウェブ上でのコミュニケーションは非常にやり辛いものとなってはいるが、逆に考えれば、個々の主張に対して、それぞれ判断できるとも言える。

 なんとなく好きな人の意見だから、嫌いな人の意見だから、で判断するのではなく、個々の記事や意見について別々に考え、評価を下す。莫大な情報量と極端な偏向性が存在するウェブ上においては、そうすることによって、冷静に物事を見る視点を養えると思う。

 

 翻って、これは、現実世界でも変わらない。直感で人を「好き」になったり、「嫌い」になったりするのは自然だと思う一方で、相手の全てに頷く、または、全てを否定するような関係性は、端から見ていて、ある種の恐ろしさを感じてしまう。

 「『好き』に理由なんてない」という意見も分からなくはない。時には、直感が大切になることもある。けれど、最初はそれで良くとも、常にそうあり続けることは、思考停止以外の何物でもない。故に、「好き」と「嫌い」の理由を考えることは、相手との関係性だけでなく、自分自身を見直す上でも、意味のあることだと思う。

 なんかそれっぽく書いてまとめようとして、失敗しちゃった感じ。僕が言いたいのは、「好き」だから何でもやっていいわけじゃなく、相手のことを考えて行動して欲しいってことと、「嫌い」だから全てを否定するんじゃなく、認められるところは認めて欲しいってことです。はい。

 

 

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