本を読んで、考えて、形にする。


 

 昨日の記事のタイトル。決めるのにそこそこ悩んだ結果のものであり、にしては、「語呂が悪いなー」「読点と単語のバランスが…」「『養えた』って何か別の言葉なかったのか」などと、我ながら突っ込みどころが満載。もう少し、うまい単語や言い回しがパッと浮かぶようになりたい。

 そんなタイトルではあるが、僕はそこに「考える力」という言葉を入れた。この点に関しても、「小説は考えるものなんじゃろうか…」といった疑問もある。けれど、僕にとっての本は、昔から他人の「考え」をもたらしてくれるものであると同時に、自身が「考える」きっかけともなり得るものだった。

 

 

 そんな、「本を読む」ことと、「考える」ことについて考えてみた。

 

「考える」を考える

 そもそも、普段から僕らが当たり前のように行なっている「考える」という行為は、どのようなものを指すのだろう。まずはお約束の、辞典の引用から。

 

1. 知識や経験などに基づいて、筋道を立てて頭を働かせる。

  • 判断する。結論を導き出す。「こうするのが正しいと―・える」「解決の方法を―・える」「よく―・えてから返事をする」
  • 予測する。予想する。想像する。「―・えたとおりに事が運ぶ」「―・えられないことが起こる」
  • 意図する。決意する。「留学しようと―・える」「結婚を―・える」

2. 関係する事柄や事情について、あれこれと思いをめぐらす。「周囲の状況を―・えて行動する」「くよくよ―・えてもしかたがない」

3. 工夫する。工夫してつくり出す。「新しいデザインを―・える」

4. 問いただして事実を明らかにする。取り調べて罰する。「―・へられつる事ども、ありつる有様、願をおこしてその力にてゆるされつる事など」〈宇治拾遺・八〉

5. 占う。占いの結果を判断・解釈する。「いまだかやうの事なし。いかがあるべきと―・へ申せ」〈平家・一一〉

考える とは - コトバンク

 

 この内容を鑑みれば、僕らが日常的に行なっている活動としての「考える」は、1、2、3に当てはまるだろう。その中でも、3の「考える」が生産活動としての思考であるのに対して、1と2は、自身の内情、もしくは周囲の状態に関して、思いを巡らす諸活動であると言える。

 

 人間や動物の行為それ自体は、基本的には、客観的に観測できるものだ。歩く、走る、食べる、眠る、見る、触る、などなど。しかし、人間の、考えたり、思ったりするという「思考」活動を、周囲から判断することは難しく、その内容を理解するのは、超能力者でもない限り不可能だ*1

 

 僕らは、「考える」ことによって意志を決定し、実行に移している。1の意味にあるように、予測・想像し、妥当性を判断し、そして、決意している。そのような過程をすっ飛ばした短絡的な行動に対しては、しばしば、「考えなしの行動」「思考停止だ」と批判されることとなる。

 時には、そのような行為が良い結果をもたらし、賞賛されることもあるが、根本的に、人間は「考える」ことなしに生活できない。普段は無意識に行なっていることではあるが、僕らは小さな「思考」の連続から行動を決定し、生活している。それを疑う余地はない。

 

本を読む=思考停止?

 では、「本を読む」という行為は、思考活動にどのように関わっているのだろう。

 

 冒頭の記事に対して、数名から、「読書は思考停止」「そんな本で考える力を養えるとは思えない」という突っ込みをいただいた。後者に関しては、各人の評価によるだろうし、それら作品を読んだ上で何も考えることができなかったのなら、その通りなのだと思う。しかし、「読書そのものが思考活動を放棄している」というのは、どうなのだろうか。

 過去の記事の中で、僕は本を読む理由について、次のように書いている。

 

「読書」という行為に意味を持たせるとすれば、それは「学びを得る」こと。その「学び」とは、自分の中にはない、「他者」という別世界からもたらされるもののこと。

(中略)

簡潔に言えば、僕が「本を読む理由」は、「別世界に意識をぶっ飛ばすため」だ。

僕が本を読む理由は「別世界に意識をぶっ飛ばす」ため - ぐるりみち。

 

 僕にとっての「本」、そして「読書」という行為は、現実ではない、別の世界の物語・思考を体験するための手段だ。小説を読んで、その世界観に浸り、登場人物に感情移入すること。エッセイやビジネス書を読んで、他人の思考・価値観に触れること。本は、そのような意味で僕の「別世界」だ。

 

 では、そこに僕自身の「考え」はあるのだろうか。この段階では、無い、とも言えるだろう。僕の場合、本当に集中して本を読んでいるときは、自身の思考を挟む余裕なんてない。ちょっと休憩して、ぼーっと物思いを巡らせることもあるけれど。

 そのような意味では、本を読んでいる最中の僕は、「考える」ことをしていない。ただただ、本の世界にトリップし、情報を受け取るだけ。ゆえに、「読書は思考停止」という主張は、間違いではない。

 

本を読んで考える

 しかし、「本を読んでそれで終わり、後は何もしない」という人は、ほとんどいないと思う。人は本を読み終えた後に、少なからず何かを考える。

 それは、「面白かった」「感動した」「為になった」という感想に限らない。「あのキャラのあの行動はおかしい」「自分だったらどうしただろう」「その指摘は妥当ではない」「最初の主張には賛同するが、結論がおかしい」など、疑問がわいてきたり、賛成あるいは反対したり、自身の意見を持ったり。これらは全て、「考える」ことではないだろうか。

 

 前述の引用のように、僕は読書において、「学びを得られる」ことが、ひとつの効用であると考えている。そして「学びを得る」には、その本の妥当性を問う必要がある

 その内容は適切かどうか、不適切だとしたら、それはなぜか、対案はあるのか、などと、読み終えた本を吟味する。内容について判断し、自分なりの結論を導き出していることから、この作業は、「考える」の1の意味に当てはまると言えるだろう。

 

 本を読むという行為は、それがある種の体験・経験である以上、その内容と結果から、何かしらの思考活動を誘発するものであると思われる。自分にない価値観を知るような、良い意味での学びを得る場合に限らない。たとえ、それがその人にとって無価値であったとしても、「つまんなかったから、もうこの作者の本は買わん!」と考えること、それも、一種の「学び」だと思う。

 

物語を読んで考える

 他方では、「小説なんて無意味!読んで、『おもしろかった』で終わりじゃないか」という批判もあるかもしれない。この突っ込みに対しては、こちらのツイートに賛成だ。

 

https://twitter.com/y8bit/status/417104513841909760

 

 物語作品の多くは、「いろいろあったけど、最後はきれいにまとまって大団円!めでたしめでたし!」というハッピーエンドが好まれる。その時の読後感も大切だけれど、僕自身は小説を読み終えたときに、「考えさせられたかどうか」で、おもしろさを語ろうとする傾向が強い。

 

 小説は物語作品であり、娯楽だ。読んで、「うん!面白かった!」で終わるのが良いのであって、そこに余計な突っ込みや評価を下すのは無粋だ、と言う人もいるかもしれない。

 しかし、小説に限らず物語の多くには「テーマ」が設定されており、そのテーマ性が強ければ強いほど、人の心を動かすし、いろいろ考えさせられる良作であると、僕は思う。例えば、教科書でおなじみの『走れメロス』『こころ』などの小説は、その典型的な作品だろう。というか、「考えさせられる」からこそ、その点を問題とするべく、教科書に載せているのだろうけれど*2

 

 読者によって、共感する登場人物が違ったり、彼らの行動に対する評価が異なったり。物語を思い返し、誰かと語り合うのは楽しい。これらを鑑みれば、小説もただ消費されるだけのコンテンツではなく、思考活動をもたらし得る本であると言っても、間違いではない。

 

「考える」読書をする

 冒頭の記事で取り上げた本のひとつに、『知的複眼思考法』がある。書名の通り、「思考法」を論じた内容ではあるが、その第1章では、「創造的読書で思考力を鍛える」と題し、「考える」ための読書法を提示しており、本記事とも関係がありそうなので、簡単にご紹介。

 

 まず、「本でなければ得られないもの」について。

それは、知識の獲得の過程を通じて、じっくり考える機会を得ることにある――つまり、考える力を養うための情報や知識を与えてくれるということだと私は思います。

 

 その上で、「考えるための読書法」として挙げるのが、「批判的読書」。

著者の思考の過程をきちんと吟味しながら読もうとすることです。著者が書いていることを、有名な評論家、あるいは大学教授が書いているのだからと思って、そのまま鵜呑みにするのではない、そういう態度をもって本に接する。そして、できるかぎり、書き手の論理の進めかたを、他の可能性も含めて検討していく。つまり。対等な立場に立って、本の著者の考える筋道を追体験することで、自分の思考力を強化しようというのが、批判的読書の方法です。

 

 方法を簡潔にまとめると、以下の様なもの。

眉に唾して本を読む:わかったつもりにならないで、おかしいと思うところを見つけようとする

著者のねらいをつかむ:著者の目的、想定する読者層を探り、理解する

論理を追う:飛躍がないか、反対意見に対する態度、根拠が示されているか

著者の前提を探る:著者が直接書かずに与えている印象と、書いてある事柄を区別する

 

 つまり、読書は、考える力を養うための絶好の手段であり、その内容もありのまま受け取るのではなく、あくまで客観的・批判的に読むことによって、自身の思考力をより鍛えることができる。それが、著者の見解だ。

 

「考える」を形にする

 「あれ?ぶっちゃけこの記事、この引用だけで事足りるんじゃね?」と、今、まとめていて感じたのだけれど。……でもまあやっぱり、自分の言葉と表現で考えたことをまとめないと、ね!

 

 僕にとってのブログは、そのような「考える」を形にしたものだと思っている。もし、読んでも「何の考えも主張も伝わってこない」と言うのなら、きっとそれは僕の文章力・表現力のなさゆえだろう。真摯に受け止め、善処する所存であります。

 

 塵も積もれば――とはよく言ったもので、今、書いているこれが、本ブログの第100号の記事となる。文章も主張も、まだまだ未熟ではあるとは思うけれど、未熟者なりにも書ける文章、思いつく考えもあるんじゃないかしら。これからも気ままに、せっせと「考える」を形にして、積み上げていこうと思う。

 このようなブログを読んでくださり、時には突っ込みまでくださる皆様に感謝。これからもどうぞ、よろしくお願いします。

 

*1:機械を用いた脳波計測などにも限界がある

*2:僕としては、太宰なら『人間失格』の方がいろいろと考えさせられて好き