「自分の好きなことなら、いくらでも語っていられる!」という人がいる。趣味でも、食べ物でも、なんでも。自分が気に入ったものを語ろうとすると、次々と「好き」があふれてきて、もう止まらなくなるような人。そんな人を、僕はすごいと思う。
「どうして『好き』なの?」
「好きなものがない」人は、なかなかいない。たとえ無趣味だとしても、食べ物とか、友達とか、場所とか、何かしらの「好き」は誰もが持っているはず。よほどの何かに絶望して無気力にならないかぎり、人間にとっての「好き」は、その人の原動力となる大切な感情だ。
一方で、その「好き」を伝えることは意外と難しい。「好きなものはなに?」と聞かれて答えることはできても、「どうしてそれが好きなの?」と問われると、咄嗟に答えられないことがある。「なんとなく」「雰囲気が良い」「好きだから」などなど、曖昧な返答をしてしまった経験がある人は、少なくないのでは。
「好き」の理由を言葉にできないとき、それを「まあいっかー」と流してしまうのは簡単だ。けれど、そこで「どうして答えられなかったんだろう」「あれ?もしかして実はそんなに好きじゃないのかな?」と、思索を巡らせてみてはどうだろうか。
感情を説明する
では、「好き」の理由にはどんなものがあるだろうか。思いつく限り、挙げてみた。「好き」の対象によっても変わってくると思われるので、それぞれの例を出しつつ。
食べ物:おいしい、甘い、辛い、香りが良い、食感が好み、腹にたまる、贅沢さを感じる、など
人:一緒にいると楽しい・落ち着く、気遣ってくれる、世話になっている、恋愛対象として惹かれている、など
趣味:楽しい、勉強になる、ストレス解消になる、達成感がある、出会いがある、など
作品:内容が良い、創り手に魅力がある、得るものがある、など
む、難しい……! 必死に考えてみたけれど、対象が曖昧なせいか、その理由も曖昧になってしまった。とりあえず、ひとつずつ考えてみよう。
「食べ物」
プロフィール欄の定番といえば、「好きな食べ物」。だが、その理由を考えようとすると、困ったことになる。食べ物を好きな理由と言えば、その多くが「おいしいから」で済んでしまうためだ。
五感で感じて接するものに関しては、そこで感じた表現がそのまま、「好き」の理由になっているようだ。「おいしい」「甘い香り」「きれいな音」など。しかし、例えば、産地、無添加、ブランドなど、その物の持つ特性から、「好き」の理由が生まれることもあり、一概には言えない。
「人」
次に、「人」に関して。ある人間が好きになる人は、自然と相手の持つ特徴が判断基準になると思われる。「優しい」「かっこいい」「落ち着く」など、その人を構成するどこかの要素に惹かれて、好きになる。内面・外面に関係なく。
具体性を持たせるならば、実際の経験などで説明することになるだろう。「仕事で失敗して落ち込んでいた時に慰めてくれた」「会話は少ないけれど、お互いに一緒にいて心地良い」というように。外面の場合は、顔や身体のパーツ……とか?
「趣味」
趣味については、これこそ、自分の「経験」が「好き」の理由になるものだと思う。
スポーツ全般では「勝った時の達成感」、ものづくり系では「作品を褒めてもらえる嬉しさ」、読書や音楽などのコンテンツでは「世界観に夢中になれる」など、自分が実際に触れて、経験して、感じたことがそのまま「好き」になる。
「作品」
最後に、作品に関して。作品と一口に言ってもさまざまあるが、「自分が惹かれた点」「心打たれた点」などを説明すれば間違いないと思う。
本ならば「主人公が敵に手を差し伸べるシーンに感動した」、音楽ならば「この部分のメロディが独特で耳に残った」、絵画ならば「あの部分の色使いから目を離せなくなった」など。趣味のところでも挙げた、「世界観に夢中になれる」もひとつの解であり、共通点は多い。
「好き」の感情を説明するもの
これらに総じて言えるのは、「好き」の感情は多くの場合、経験と知識によって裏打ちされているのではないか、ということ。実際に触れて、経験して、感じた上での感情。当たり前といえばそれまでだが、それを意識して話せるようにしておくことは、悪くないと思う。
ほら、スポ根モノでもあるじゃない。スランプに陥った主人公が、「あれ……? なんで俺、このスポーツやってたんだっけ……?」ってなるシーン。だいたいは、「こういう経験があったからだ! だから俺は今、がんばれる!」的な流れで復活する。そういうこと。
安易になりがちな褒め言葉
他方では昨今、「好き」を表す言葉や褒め言葉が画一化され、安易になっているようにも感じられる。――たとえば、映画。その魅力や好きな部分を尋ねると、返ってくる答えは次のようなものだ。
「◯◯(俳優名)が超かっこよかった」
「ストーリー展開がすごかった」
「キャラクターが魅力的だった」
「映像がすごかった」
一言で感想を表すなら、たしかに単純でわかりやすいのかもしれない。けれど、これではどの作品でも似たような感想になってしまい、最終的には「楽しかった(小学生並みの感想)」でまとめられてしまう。もう一声、何か欲しいところ。以下のように。
「◯◯が今までにない悪の役どころを演じていて、新しい魅力を発見できた」
「中盤まで王道展開と思わせておきながら、突然流れが変わって目ん玉ひん剥いた」
「サブキャラクターにまで焦点が当てられていて、彼らの中にも物語を感じられた」
「最新鋭の3D技術が云々かんぬん」←思いつかなかった
「すげえ」と言うだけなら、誰でも答えることができる。なればこそ、自分が心惹かれた部分を精一杯思い出して、どのように「すげえ」のかを説明しようとしてもいいんじゃないだろうか。
また、インターネットにおける作品評価の言葉として、「神」もしくは「ネ申」という表現がある。今や廃れつつもあるが、好きな作品を何でもかんでも「神」と崇めていては、ウェブは神であふれかえってしまう。いくら八百万の神々の住む国とはいえ、限度があるでしょう。
「神」だけでは何も伝わらない。それが善神であるかすら分からない。もしかすると、「この作品、マジで神アニメ!」とは「この作品、本当に最悪! 邪神アニメ*1だ!」という可能性もゼロではない。だからこそ、「神」を崇め奉るくらいならば、その「神」たる所以をしっかりとした言葉で布教するべきではないだろうか。
「感情的になる」ということ
そもそもこんな記事を書こうと思ったのは、「嫌い」の感情ばかりを見て、少し疲れたため。それも、理由の示された「嫌い」ならいいけれど、具体性のない誹謗中傷ばかりが繰り返されているのを見てしまったので。
「好き」も「嫌い」も、表現するのは悪くないし、中身のある内容ならば、何の問題もない。ところが、感情だけが先走りすぎて、見るに耐えないものになってしまっているのは少なくない。……特に、SNSを代表とするインターネット上においては。
「感情的になる」ことを否定はしない。「好き」も「嫌い」も、その理由を知るには、自分の感情と向き合い、その気持ちの中で考える作業を必要とする。何かを表現しようとするとき、感情なしに語ることは難しい。
大切なのは、己の感情を制御し、「どこまでならいいか」を認識すること。感情のままに書き連ねた文章が魅力的なコンテンツとなることはままあるが、それは「超えちゃいけないライン」を踏まえたうえでのものだ。現実でもネットでも、それは変わらない。
掲示板やSNSを見ていると、「嫌い」を爆発させている人は多々見かけるが、「好き」を思う存分に語っている人は少ない印象がある。現実でも同じ。飲み会で、延々と愚痴を零しているような人は多い。ガス抜きも必要だとは思うけれど、もっと楽しいことも聞いてみたいし、話したい。
そのような意味でも、冒頭の「自分の好きなことなら、いくらでも語っていられる!」人は、本当に魅力的な人だと思う。そんなにんげんに、わたしはなりたい。
――以上、「好き」を言葉にできず、フラれた経験が今もなお、尾を引いている、喪男の呟きでした。泣いてないやい。
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