カテゴライズするということ
今朝方、セレ(id:kouas1100)さんのこの記事を読んで、次のような発言をしました。
プロじゃない人をカテゴライズすると、いろんな人に突っ込まれやすくなる傾向があるような。「歌い手」然り、「サードブロガー」然り。
— けいろー🖋VTuber紹介サイト運営 (@K16writer) 2013年12月18日
/プロっぽいブロガーと僕みたいなブロガーを両方ともブロガーと呼ぶことに抵抗がある - 反社会的な中学生 http://t.co/fs6a9GyL32
人や物をカテゴライズするための、新しい言葉。それらは自然と、多くの人から「突っ込まれやすい」ものとなる。好意的に受け入れる人もいれば、それはないと一刀両断する人がいたり、違う視点での考え方を提示する人もいたり。
カテゴライズ=類別化という行為は、物事を語る上では欠かせないものだ。僕らは日常的に、性別や年齢、出身や所属場所によってカテゴライズされている。
この「分類する」行為がなければ、僕らはその人がどこの誰で、どんな人間なのか理解することはできない。何らかの分類がされなければ、その人は社会において無個性な「ただの人」にしかなり得ない。
そういう意味では、社会的な「分類」がなされることによって、その人はその社会において、その人たりえているとも言えるだろう。
このように、「分類する」という行為、それ自体は当たり前のものであるし、社会に属して生活する以上、なくてはならないものだ。
しかし、そこで問題になってくるのが、特に新しい基準によるカテゴライズや、定義の曖昧な分類化が現れてくることによって、定義の齟齬や決めつけ、レッテル貼りなどが、しばしば行われてしまうことにある。
レッテル貼りという思考停止
前述のツイートをしたところ、元記事のセレさんからリプライをいただき、次のようなやりとりをしました。
@Y_Yoshimune サードブロガーは原義とかけ離れちゃってますけどね。気に入らないブログ書きにサードブロガーってレッテル貼ってるだけ。
— 12月25~27日に東京行きます (@kouas1023) 2013, 12月 18
@kouas1023 なるほどー。そうすると、「歌い手」やら何やらも似た感じではありますね。逆に「アルファブロガー」が批判の的になることもありますし、ジャンル分けによる無意味な中傷が増えるのは残念な気も。分かりやすいと言えば分かりやすいんですがねー。
— けいろー (@Y_Yoshimune) 2013, 12月 18
@Y_Yoshimune マジックワードですねー。手軽にさくっとdisれる。悲しい世の中ですよ…
— 12月25~27日に東京行きます (@kouas1023) 2013, 12月 18
厄介なのが、類別化されたカテゴリーそのものにレッテルを貼ってしまう人が、少なからず存在するということ。
「サードブロガー」という言葉の例を、「はてなブログ」という括りで見れば、元記事を読んで、「このような話があった、私はそれを読んでこう思った」という突っ込みが多かった印象。ブログに書こうとすれば、自然とそんな文章になると思うけれど。
ブログならば、さらにその記事を読んだ人が言及する可能性もあり、議論とは違うかもしれないが、話が次へ次へ広がっていくのは良いものだと思う。少なくとも、「アホか」とすっぱり切り捨てるよりは生産的だ。
そのような「考える」活動をせず、他の人が使っている様子や、そこから感じ取れる感情によって、その言葉を使ってしまうのは、割と危険なんじゃないかと思う。
そんな言葉の代表が、ネットにおける「ゆとり」という単語だ。
「ゆとり」という言葉は、あまりにも便利だ。便利すぎる。どのくらい便利かと言えば、小学生が他人を否定するのに「ばーかばーか!」と無駄に乱用するのを覚え、大人になって語彙が増えても、「バッカじゃねーの」と昔と変わらず使い続けられるくらい。そのくらい汎用性の高い、「若者批判のテンプレ語」となっているような印象が強い。
本来の意味はもちろん、「ゆとり教育」としての意味すらどっかに吹っ飛んで、もはや若者に対する中傷語として大成してしまった、かわいそうな言葉。ゆとり教育の是非も考えず、メディアによる批判を鵜呑みにした結果、「ゆとり=残念な若者」としての構図が成り立ってしまった。若者も若者で、「だって俺らゆとりだしー?」と思考停止しちゃってるのも、なんだかなーと。
定義の曖昧なカテゴライズは、突っ込みどころが多い分、自然とたくさんの批判を受けることになる。その結果、本来の意図したものとは異なった意味合いを持ってしまう。「ゆとり」とか、「中二病」とか。そんな思考停止に陥らないためにも、言葉の意味を考える作業は大切なんじゃないだろうか。
ところで、本筋とは関係ないけど、「定義の曖昧なカテゴライズは、突っ込みどころが多い分、自然とたくさんの批判を受ける」って、あれっすか。マスメディアの大好きな「◯◯系男子(女子)」みたいなやつっすか。あれって、もしかしてそれを狙ってやってたんすか。うわ、きたねえ。
マジックワードを量産しないために
意味の曖昧な、多様な場面で使えてしまうテンプレ語こと、マジックワード。自分では理解したつもりでも、その人や、時と場合によって認識や定義が違っていても不思議じゃないのだから、少しでも「ん?」と思った言葉については、その意味を考えて、問いただす作業が必要になってくると思う。
@kouas1023 なんちゅーか、何でもかんでも気軽に検索できちゃうせいか、ひとつひとつの「言葉の意味」について考える機会も人も減ったような気がします。人によっては、そんな時間すらないのかも。
— けいろー (@Y_Yoshimune) 2013, 12月 18
@Y_Yoshimune 言葉がどんどん変化してるってことは昔からそんな感じだったんじゃないですかね。辞書とかが無い頃は知るすべが無かったし、辞書ができても簡単に調べられるからいいやーと。人間の性質が変わっていない以上どんなサービスができてもあんまり変わってないような。(続く)
— 12月25~27日に東京行きます (@kouas1023) 2013, 12月 18
@kouas1023 でも、言われてみればそうですねー。「言葉」は移ろいやすいものだから、その時代や社会によって、幾度も意味を問いなおす必要があるのかも。
— けいろー (@Y_Yoshimune) 2013, 12月 19
極端なカテゴライズによる「決めつけ」を減らすには、行なわれた「分類」が絶対ではないことを意識する必要がある。疑う必要がある。そのためには、為された分類の別の可能性を考えればいいと思う。「◯◯は△△」なのではなく、「◯◯は△△であり、□□でもある」と。
(中略)
メディアの報道では曖昧な情報は流せず、分かりやすさ重視で「◯◯は△△だ」と断定する場合が多く、ネット上でも同様に、まとめサイトが目に留まりやすい断定系のタイトルを掲載することが多い。それを見て「そうなのか!」と受け入れるのではなく、そのカテゴライズをひとつの「属性」として捉え、別の視点での分類を探したり、自分で考える方が確実で、おもしろいと思う。
この言葉はどういう意味なのか。どのような考えが根底にあるのか。その人はどういう考えなのか。情報元はどこにあるのか。類似事象との比較はされているのか。それがほんとうに正しいのか。
いちいち「愛とはなんぞや!」なんて哲学的なことは考えていられないけれど、ひとつひとつの言葉を真に受けず、ワンクッションを置いて、ちょっと考えてみるだけでも受け止め方は変わってくるはずだ。
過去記事の焼き直しっぽくなってしまったけれど、改めて、「言葉」の意味を問うことの重要性を感じたお話でした。
見直してみると、「この言葉ってどうなん?」という内容の記事はちょくちょく書いてきていたので、これからも疑問を持ったら、書いていきたい。「僕はこの言葉はおかしいと思う!」と書くので、「いやでもそれは違うっしょ!」「そもそも原義はこうなっていてだね…」といった突っ込みをお待ちしております。
感じるだけじゃだめなんだ。やっぱり、考えなくちゃ。