ぐるりみち。

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読了して騙されたことに気づく『読んでいない本について堂々と語る方法』

 ある日のこと。毎年恒例、Kindleストアの大規模セールで気になった本をポチりまくり、ツンツンドクドクとたまっていく電子書籍の積ん読を前に、真顔になっていた10月某日。データであるにも関わらず強い圧迫感を覚えるそれら積ん読の山から目を逸らし、ジュンク堂書店の新刊コーナーを物色していたところ、一冊の本が目に留まった。

 瞬間、脳裏に浮かんだのは現在放送中の某アニメの主人公。「村上春樹をどーいうスタンスで読んだらいいか」うんぬんを語っていた彼女(CV.喜多村英梨)*1の「これだ!」という声に従うまま、ふと気づけば、お会計を済ませている自分がいた。

 これでまた積ん読がどうのこうの――と紛糾するだろう脳内会議は欠席した。そう、本との出会いは一期一会である。ノリと勢いは大切。――というわけで今回は、このピエール・バイヤール氏の世界的ベストセラー(買うまで知らなかった)『読んでいない本について堂々と語る方法』の感想をば。

 

「読まずに書きたい」欲求と、オスカー・ワイルドとの再会

 さて、思わず買ってしまった、この一冊。「ここはやはりタイトルに倣って、“読んでいない本”のまま“堂々と語る”べきか否か……」とメタメタしいことを考えながらも、とりあえずはページをめくりめくり。

 どんな内容かと思って読み進めてみたら――これが、想像以上におもしろいじゃないですか! やべえ! このままじゃ完読しちゃうぞ! ひとたび勢いに乗ってしまえば、あとは流れるがまま。無事に読み終え、はてさて、どのように感想をまとめようか――とキーボードに向かっている現在。

 訳者あとがきの表現を引用すれば、読者を「読書コンプレックス」から解き放ってくれるだろう内容。さらに広い意味で換言すれば、「自由な読書」を志向する本。不自由で面倒な読書感想文にドロップキックをかまし、あらゆる人にとっての「本」と「読書」を再定義してくれる一冊だ。

私は批評しないといけない本は読まないようにしている。
読んだら影響を受けてしまうからだ。

オスカー・ワイルド

 本書を開いてまず目に入るのが、この引用である。「ビジネス書などでも頻繁に見かける偉人の名言」として、本文やタイトルと関わりのありそうな一文を拝借しただけのようにも思えた、この文句。……その安易にして愚かな決めつけは、終盤できれいさっぱり覆された。

 本書の概要、そして筆者の主張を端的にまとめようとするならば、この文句をおいて他にふさわしい表現はない。そう断言できるほどにしっくりくる引用であり、逆に言えば、この文言によって内容が想像できてしまった人は、おそらく本書を“読まずに済ます”ことのできる立場にあると言える。ページをそっ閉じして、バーナード嬢に会いに行こう*2

 

「読書」の効用とされる教養と、あまりに不確かな「本」という存在

 この『読んでいない本について堂々と語る方法』において、特に序盤で語られている内容は、過去に何らかの「読書論」に触れたことのある人からすると、まだ珍しくない言説であると推測できる。それすなわち、本と読書がもたらす効用のひとつされる「教養」の話だ。

 教養があるかどうかは、なによりもまず自分を方向づけることができるかどうかにかかっている。教養ある人間はこのことを知っているが、不幸なことに無教養な人間はこれを知らない。教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素をほかの要素との関係で位置づけることができるということである。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』P.33

 言い換えれば、「ある一冊の本について語るとき、その場で交わされる話題が、その本の内容だけで完結することはほとんどあり得ない」ということ。

 学問であれば関連する知識が参照されるのは当然であり、たとえ小説であっても、作家個人の人格や経験から作品を分析せんとする「作家論」的な視点は王道だ。あるいはそのように小難しく考えなくても、ある物語を読んで、そのストーリーやキャラクターから想起された別作品に話題が及ぶのは、日常においても自然な話の流れだと言える。

 ある一冊の本から読み取れるトピックだけにとどまらず、同様の要素を持つ別の書物や、同じ作者の過去作品、さらにはその分野の古典・名著にまで広がっていく話題展開は、決して珍しいものではない。目の前の本を起点にして、話題がほうぼうの書物へと拡散していく――それはまるで、「本」という共通項を持つ親しい間柄の2人が、図書館で本棚の隙間を縫うように歩きながら話をしているよう。文学少年・文学少女の関係性っていいよね……。

 ある本についての会話は、ほとんどの場合、見かけに反して、その本だけについてではなく、もっと広い範囲の一まとまりの本について交わされる。それは、ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体である。私はここでそれを〈共有図書館〉と呼びたいと思うが、ほんとうに大事なのはこれである。この〈共有図書館〉を把握しているということが、書物について語るときの決め手となるのである。ただし、これは〈共有図書館〉を構成している諸要素間での関係の把握であって、切り離されたしかじかの要素の把握ではない。そしてこの意味で、大部分の書物を読んでいないということはなんら障碍にはならないのである。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』P.35

 本書では、この〈共有図書館〉をはじめとする複数の〈図書館〉〈書物〉がキーワードとして登場し、これらの考え方によって「本」という存在の曖昧さを噛んで含めるように説明してくれている。――そう、幾世紀もの時を経て現代に残っている古典ですら、実のところ、不確実性を多分にはらんだ曖昧な存在なのだ。

 

説明不可能な「既読」状態と、「読まない」からこそ引き立つ独創性

 ところで、そもそも「本を読んだ」とはどういった状態のことを指すのだろう? 最初から最後まで一字一句飛ばさずに読めば「完読」と言える? 翌日には内容を忘れてしまったとしても?

 たとえ飛ばし読みでも、要点を把握していれば主観的に「読んだ」と言えるし、逆に周囲から客観的に見て、その人がある本をどれだけ「読んでいる」のかはわからない。未読であろうと、自信満々に語った内容が当たらずとも遠からずであれば周囲からは判然としないし、逆に隅々まで読み込んだ既読者であっても、常に「誤読」の可能性はつきまとう。

 要するに、読者たる「人」が常に変化し続けている存在である以上、個々人の気分や解釈によって本はどのようにも読めてしまうし、読まれてしまう。そして、ある一冊の本を複数人で語るにしても、相手がそれを読んでいるかいないのか、読んだとしてどのような読み方をしているのか、さらにはその人自身が普段の読書に際して参照している知識や教養――本書の表現では〈内なる図書館〉*3と呼ばれる部分――はどうなっているのかを他者が知るのは、当然ながら不可能に等しい。

 ざっくり言えば、「本とか読書とか、実はむちゃくちゃ適当にやってるよね!」という、一部の読書家さんが聞いたら激怒しそうな豪快なちゃぶ台返しを、そのちゃぶ台に加わる力加減からベクトル、その軌道まで懇切丁寧に説明しているのが、本書のトピックのひとつである(と自分は“読めた”)

 

アニメ『バーナード嬢曰く。』4話
さわ子の読み方・解釈が間違いだと断言できるだろうか、いや(反語)。【(C) 施川ユウキ/一迅社・ド嬢図書委員会】*4

 それほどに曖昧模糊とした「読書」という行為を再確認したうえで、筆者の主張は過激にして明快だ。「読書」について世界中で規範となっている3つの規範――すなわち、読書は神聖な行為であるという「読書義務」、本は徹頭徹尾読まなければならないという「通読義務」、ある本を語ろうとするのならば必ず読んでいなければならないという「必読義務」――をぶっ壊し、「好き勝手に語ったらええやん!」と声を大にして叫ぶことだ(※意訳)

 それだけではない。筆者はむしろ「お互いに読んだことのない本について語ったほうがおもしろい、そのほうがいいくらいだ」と断言している。この説明として、本文で挙げられている「アフリカの部族に『ハムレット』を読み聞かせてみた」的な事例が非常におもしろかったので、興味を持った方はぜひ手に取って読んでいただきい。一口に言えば、彼らはまったくの異文化として『ハムレット』と対面したがために、そこで描かれる価値観と物語展開に対してさまざまな疑問を抱くのだが、それは西洋文化を知る私たちには考えが及びもしなかった独創的な「批評」であり、興味深く感じられるというものだ。

 この例が明らかにしている事実は、いくつかある。ひとつは「読んでいない(よくわからない)本についても人は意見を述べることができる」ということ、そしてもうひとつは「読んでいない本について語るときにこそ、その人のアイデンティティーが顕在化する」という、精神分析的な視点だ。

 少々、本文とは異なる雑な説明にはなるけれど――筆者が本書の終盤で繰り返し論じているのが、まさにこの一点なのだ。ある書物について語るとき、その対象となるのは「本」ではなく、目の前の相手との関係性である。本について語っているつもりでも、実際に口から発せられているのはその人の〈内なる図書館〉から引き出された知識や教養、あるいは独創性と呼ばれるものであり、その結果として相手とのコミュニケーションが成立しているにすぎない。本は方便であり、書物とは結局のところ、話のタネでしかない(「あまり本は読まん!」と話す筆者(フランス人)がここで例に挙げられているのが、夏目漱石の『草枕』だというのもまたおもしろい*5)。

 そして、口実として選ばれた「本」は、それが未読であるときにこそ引き立てられ、話者もまた独創性を発揮できる。ここでようやく、冒頭のワイルドの文句に戻ってくるわけだ。あるいは、同じく「読書」について論じたショウペンハウエル*6の言を持ってきてもいい。

読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れ込んでくる。

ショウペンハウエル『読書について 他二篇』P.11

 ――まあ、だからと言って、「本はまったく読まなくてもおk」という話でもないでしょうが。そう結論づけるのもありではあるし、それもひとつの「読み方」であるのは間違いない。

 長くなったけれど、本書『読んでいない本について堂々と語る方法』は、読書論であり、テクスト論であり、哲学書であり、書評本であり、コミュニケーション論であり――と、いろいろな読み方ができる一冊であるように思う。それこそ読者によって何を汲み取るかは変わってくるだろうし、そのなかにどのような“自分自身”をかいま見るかは各々に異なるはず。

 ただひとつ言えるのは、少なからず「本」もしくは「読書」という存在・行為に関心がある人に対しては、自信を持っておすすめできる本である、ということ。『読書について』ほど痛烈でなく、それどころか気楽に読める読書論。――だって、それこそ、読まずに“堂々と語っ”てもいいんですよ? タイトルからして全力でハードルを下げにかかっているわけだし、どのように読んだってOK。……ただし、「ハードルが消えたと思ったら落とし穴があるじゃねえか!」みたいな不意打ちは食らうかもしれないけれど。

 ――そうなのです。訳者あとがきまで読んでやっと、騙されていたことを知った。なーにが、「タイトルに倣って、“読んでいない本”のまま“堂々と語る”べきか」じゃい。書名に釣られてメタに書評しようと考えた人は、すでに筆者の術中にはまっている説。この点は実際に読んでこそ感じられる魅力だと思うので、まずは手に取ってページをめくってみてくださいな。途中で「ん?」と気づければ爽快、わからずとも、読後感は最高だ。

 

 何はともあれ、「読書」という行為への謎の義務感や、積ん読に対する妙な罪悪感、そして本の感想を書く・話すにあたって周囲からもたらされる圧迫感に居心地の悪さを感じていた人にとって、本書は良き処方箋となるのではないかしら。

 特に、感想文やレポートに苦痛を覚えている学生もしくは会社員、あとは書評記事の幅を広げたいライター・ブロガーさんあたりも、読めば(読まずとも)得られるものがあるはず。……というこのパラドックスがまた、たまらなくおもしろいのだ! ふーははは! 

 

 

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*1:施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』2巻の表紙でおなじみ。

*2:最新3巻は10月下旬に出たばかり!(ダイマ)→施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』3(REXコミックス)

*3:個々の読書主体に影響を及ぼした書物からなる、〈共有図書館〉の主体的部分(P.123より)。“われわれの〈内なる図書館〉の本を中傷するような発言は、われわれのアイデンティティーの一部となったものにたいする攻撃として、ときにわれわれをもっとも深い部分において傷つける”(同)。

*4:バーナード嬢曰く。 #4「POP」 - ニコニコ動画

*5:“「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」”/夏目漱石『草枕』 - 青空文庫

*6:アルトゥル・ショーペンハウアー - Wikipedia