僕たちの夏は、まだ始まったばかりだ!


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 夏の暑さに耐え切れず、喫茶店でパソコンに向かっている。

 会社寮時代の1年半を除き、冷暖房のある部屋で生活をしたことがない自分にとって、夏真っ盛りの8月は戦いの季節。学生時代であれば、パンツ一丁の装備と「気合」の精神コマンドによって耐え忍ぶことができたこの時期も、そろそろ油断ならない。日本の夏は年を経るごとにがんがん暑くなり、己が身は歳を重ねるごとにひぃひぃ悲鳴を上げている。「最悪の場合、死に至る」の文句が、そろそろ冗談じゃなくなってくる頃合いだ。冷房だいじ、超だいじ。

 そんな暑さのせいで、頭がくるくるぱーになっているわけではないと思う。でもここ最近、季節の移り変わりがいつにも増して速い気がするんだ。毎月の月初には「あっという間に○月も終わり──」「気づけばもう○月に入りまして──」などという枕詞がお決まりになりつつあるけれど、だって、冗談じゃなく本当にそう感じるんだもの。きっと、敵のスタンド攻撃のせいだ。

 ちょっと前に桜の写真を撮りに皇居外苑をぶらぶらしていたと思ったら、次の瞬間には新緑の季節。蝉先輩は ミンミンジュワジュワツクボーシ! と鳴きわめき、茹だるような暑さで外出するのも億劫になっていた。……でもね、たかし? それでも大人たちは喜んで外に出ているし、皇居外苑には今も桜が舞っている(※ルアーモジュール)のよ? たかしも、ポケモン、ゲットしに行こう? な?

すべてを「受け流す」ように生活するのは楽、だけど

 時間の流れが妙に速く感じられるのはなぜか。「オッサン化」をはじめとして、いろいろな理由付けができそうではある。会社員時代は物理的な忙しさゆえにあれこれ考える余裕もなく、ルーチンワークをこなすだけの営業マシーンと化していた点が挙げられそうだ。

  ただし、ここで問題となるのは「目の回るような忙しさ」ではなく、「代わり映えしないルーチンワーク」のほうなのではないかしら。超絶ブラック企業に勤める会社員だろうが、焦燥感を覚えつつも日々を怠惰に過ごす無職だろうが、いずれにせよ同じことの繰り返しによって生活をまわしていることに違いはなく、「いつの間にか季節が巡っていた」という時間に対する感覚に大差はないのではないかと思う(もちろん、各々の生活における活動の内容は異なるし、そもそも人によって“時間”に対する意識は違うことを前提として)

 つまり、「過ぎゆく時間が速い」という意識の根っこにあるのは、日々を過ごすうえでの「代わり映えしない」という感覚にあると言えるのでは。──日常感、とでも言いましょうか。1日のタイムスケジュール的な部分のみならず、駅まで歩くいつもの道や、会話する相手、利用する商店に、帰ってから見るテレビ番組などが自然と定まっており、良くも悪くも「日常」として染み付いてしまっている感覚。

 「まったく同じ日はない」と頭ではわかっていても、それらを「同じもの」として認識し、言わば受け流すかのように消費してしまっている状態。そりゃあ見るもの触れるものすべてが真新しく刺激的だった少年期と比べれば、歳を重ね、年を経るにつれて新鮮さを感じる機会は減って当然だ。別に怠惰に過ごしているつもりはなく、表立って口に出すほどの倦怠感を抱えているわけでもないものの……それでも、言い様のないモヤモヤが胸中で渦巻いているような。──アナタ、『怠惰』デスね?

“ハレ”の場を借りて、馬鹿になる

 そういったあまりに似通いすぎた「日常感」を取っ払うためには、どうすればいいのだろう。単純な話、かつ過去に何度も書いてきた気もしますが、まずは「日常」に対するカウンターがあればいい。刺激的な「非日常」としての週末体験、 “ケ” に対する “ハレ” の場である。祭りだワッショイ!

 自分が好きで好きでたまらない趣味の活動、あるいはそれまでにやったことのない初体験の試み、はたまた自分を知る人が誰もいないコミュニティやイベントへの参加──などなど。思わず「!」や「!?」のマークが出るほどの活動がいい。刺激によって、日常をぶち壊せ! ロケンロー!

 とにかく感情に訴えかける体験が重要であり、そういった活動によって、自分の認識を揺さぶることが大切。なぜって、ひとたび揺さぶられズレた認識を調整するには「時間」が必要であり、「時間」を認識して思考することによって、そこには「意味」が生まれるからだ。

 ただ右から左に流すだけの「日常」と質を異にする「非日常」は、代わり映えしないものとして受け流すことは叶わず、否が応でも意識せざるを得ない。「受け流さない」とは「意識する」ことであり、「時間を使う」作業である。結果、無為に感じていた日常におけるスパイスとしての “代わり映えする” 体験が、「有意義に時間を使った」という記憶と共に残る……のではないかしら。

 意識高く言い換えれば、「インプットは大切やで!」というたぐいのアレ。それが何であれ、意識的に摂取した知識・情報・体験は、自分のなかで消化するのに時間を必要とする。表面だけをなぞって「何かした気になる」のは危険だと思う一方、「何かしよう」と思い立って実践した行動は、そのあとも “時間を使って” 咀嚼するケースが多い。「好奇心」や「興味関心」といった意識を発端とする「インプット」には、その結果・過程に意義を見出すための「アウトプット」がしばしばセットでついてくる。

 他方ではそういった行為を必要とせず、普段の「日常」から “ハレ” を見出し、 “ケガレ”を 浄化するような人もなかにはいる。なんでもない日々を楽しみ、いつも歩く道からも新たな発見を得、長年を過ごす街にたくさんの「素敵」を積み重ねていくような。漫画などの物語作品において、たびたびテーマになる視点でもありますね。素敵んぐわーるど。

 凡人たる僕らにそれは難しいが、誰でも乗っかれる素敵な「非日常」の存在も、僕らは知っている。それこそ「祭」に代表される季節行事であり、特にこの8月には数多く見られるイベント群だ。

 もちろん長年のスパンで見れば、季節行事もルーチンに組み込まれた「日常」であるとも言える。子供のころはあれだけ楽しみだった地域のお祭りも、今は酒を飲んで友人家族と語らい、形式的に花火を見上げるだけ。もはや「日常」と同化した行事のひとつに過ぎず、心からヒャッハーと楽しみぐわんぐわんと揺さぶられるような感覚を得られなくなって久しい──とも。

 しかし、大人になった今だからこそできること、見えるようになった視点があり、大人なりに「非日常」を楽しむ方法だってある。場所を変え、遠出し、見知らぬ土地の祭りや有名な地域行事に飛び込むとか、この数年で増えつつある新規形態のイベントにノリと勢いで突っ込むとか。主催・出店側で祭りに参加することだって悪くないし、少年時代は限られたお小遣いでやりくりしていた屋台を制覇するべく、大人で集まり、大人げなく、大人買いをしたって文句は言われないだろう(程度やモラルの問題はあるでしょうが)。イベント・お祭りひとつをとっても、楽しみ方はさまざまだ。

 なればこそ、「いろいろやってみる」の大切さが改めて思われる。消費し、消化し、日々をこなして受け流すだけだった日常に、まずはちょっと一時停止ボタンをポチッとな。既知の季節行事だろうとまずは参加し、自分なりの楽しみ方を模索するべく、あれこれ試してみる。「子供(大人)はこうする」に縛られず、でも最低限のルールやモラルは守りながらその範疇で試行錯誤し、時間が許すかぎり、 “ハレ” の場にいるかぎりは「バカ」になる。「制限がある状態でどれだけバカになることができるか」という視点は、大人になった今だからこそできるゲーム・楽しみ方だと思うのです。

 それこそ、本日から開催中のコミックマーケットもそういったお祭りであり、まさしく “ハレ” の場のひとつなのではないかと。制限下での楽しみ方、活かし方をまさに試行錯誤中のコンテンツとして『ポケモンGO』も挙げられそうだ。それらポップカルチャーにとどまらず、一般的な夏祭りから大規模花火大会、各種さまざまな季節行事が、この夏まだまだ目白押しでござる。

 「夏」は他の季節と比べても、子供のころの思い出が鮮明に残り、思い出されやすい時期としての印象が強い。過去を思い返してノスタルジーに浸るのも悪くはない。でもせっかくの夏なのだから、大人になってからも楽しい記憶を積み重ねていければいいな、と思う。日々の出来事を受け流すようにして過ごした結果の「あっという間だったな……」ではなく、思う存分にバカになって楽しんだ帰結としての「あっという間だったなー!」を感じられるほどに。

 夏は、まだまだこれから。

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