学生時代の書評を供養する〜①津村記久子『ポトスライムの舟』


津村記久子『ポトスライムの舟』

 第140回芥川賞受賞作『ポトスライムの舟』を読んだ。最初にタイトルを聞いたときは、どこの新種のスライムかと思ったが……なるほど、“ポトス・ライム”とはつまり、観葉植物の「ポトス」を指すらしい。では、そのポトスの“舟”とはいったい、何を意味しているのだろうか。

 本作品では、契約社員として働いて過ごす女主人公・ナガセの生活が、彼女の母親、三人の女友達、仕事仲間など、周囲の人との交流を交えて淡々と描かれている。目的もなく、欲しいものもなく、ただ生きていくために働くだけ。目的ができても、実際に行動するか迷ったあげくにうやむやになってしまう。そんなある日、ナガセは世界一周のクルージング旅行のポスターを見かける。費用は163万円。その金額が自分の年収と同じことに気付いた彼女は、1年の間は副収入で生活しつつ、資金を貯めることを決意するのだが――。

 途中で急展開がある訳でもなし。文中で描かれているのは、主人公ナガセのなんでもない生活と、彼女の心情の移り変わりだけだ。しかし、それが全く単調さを感じさせないのは、なんでもない日常の中にも変化があり、その変化を作者が巧みに表現しているからだろう。同じ仕事を繰り返しているだけだからといって、無風で不変の生活が続くわけではない。考えていることが変わる。気分も変わる。体調だって変わる。それは内的要因にとどまらない。天気が変わる。知人の心情も変わる。すれ違う人だって変わる。そういった些細な変化を見つけることで、変わらないと感じられていたはずの日常が、変わる。いや、変えられる。そう考えることができた。

 また、1人の人間の日常生活が描かれているということで、多くの人が「あるある」と共感できそうな箇所も散見された。例えば、ナガセが使った金額をメモしているときの心情だとか。考えてみれば、「あるあるネタ」と呼ばれるこういった要素も、日常をおもしろおかしくさせる役割を果たしているのではないだろうか。自分の普段の行動が作中の登場人物と同じであることで、ちょっとおかしな気持ちになり、またその行動を現実で繰り返してしまって、おもしろさがこみ上げてくる。――ほら、また日常が変わった。

 では、作品の随所に出てくるポトスは何の意味を持っているのだろう。そして、その「舟」が指すものとは。

 このポトスはナガセが家で育てている観葉植物であり、実のところ、特に深い意味はないのかもしれない。作者も話しているように、この植物を育てる行為も、日常における「かけがえのないもの」のひとつに過ぎないのだろう。

 もちろん、いくらでもこじつけることはできる。作中でナガセが考えたように、お金のかからないポトスを食べることで旅行資金が貯まるまで凌ごう、とか。ポトスはクルージングへ自分を連れて行ってくれる舟なのだ、とか。彼女の夢にあったように、舟に乗ってポトスを世界中に配るのだ、とか。

 自分の考えとしては、作者の言う「かけがえのないもの」=「ポトス」なのではないかと思う。もしくは、帯の煽り文句にあった「お金がなくても、思いっきり無理をしなくても、夢は毎日育ててゆける」という文が示す「夢」=「ポトス」でもいい。夢を叶えることが大切なのではない。変化がないと思い込んでいる日常の中で、何か「かけがえのないもの」や「目標」、そして「夢」を見つけて、それをゆっくりと育てていくことが大事なのだ。「ポトス」を乗せた「舟」はどこに行くのかわからないけれども、その航路はきっと楽しいに違いない――。自分は、そんな意味合いを含んでいると解釈した。

 変化のない日常に満足する。それもいい。逆に、変わらない日常が嫌で何かを期待する。それでは駄目だ。少し見方を変えるだけでも、どれだけ日常の景色が変化するか。かけがえのないものを意識するだけでも、どれだけ日常が大切なものだと感じられるか。それらに気付いただけで、これまでの日常は過去となり、きっと新しい日常を発見することができる。なんでもない「日常」を見つめ直したい人にこそ、ぜひ読んでもらいたい作品だ。

 

 

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