街で耳にする“怒声”に対する苦手意識と、“怒り”との付き合い方


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 街を歩いていると、いろいろな「声」が聞こえてくる。連れ添って歩く老夫婦の話し声に、学生グループの笑い声、サラリーマンが電話に向かって謝る声に、赤ちゃんの泣き声などなど。

 自分とは無関係なそれら「声」は、雑踏に響く「環境音」の一種に過ぎない。耳に入って通り抜けるだけの雑音であり、いちいち意識することもない、ただの「音」。知っている固有名詞なんかが聞こえてきたら話は別だけど。──え? 「甲鉄城のカバネリ」がなんですって? 「無銘ちゃんかわいい」? そ れ な。

 

 しかし一方では、なぜだか耳に入ってきて意識されてしまう、耳障りな「声」もあるように思う。例えば、他者をこき下ろすような罵声。あるいは、前後の文脈がない突然の叫び声。電車のなかで電話に向かって話す声。長々と続けられる独り言。などなど。

 他は気にならなくても、どうしてか否が応でも耳に入ってきてしまうことの多い、耳障りな「声」。そのまま受け流せればいいのだけれど、多少なりとも苦手意識を持っており、不機嫌になってしまうような人もなかにはいるのではないかしら。というか、僕がそうです。カルシウム不足だ、多分。

 けれど、すべての「声」が気になり不快に感じるかと言えば、当然そんなこともなく。単なる「大声」なら耳を通り過ぎるだけだし、意識に残ることはあれど、不愉快に感じるようなことはほとんどない。気になるのは大きな声ではなく、一口に言えば、怒りをはらんだ──「怒声」だ。

 

店員さんが発する、ポジティブ&ネガティブの、2つの「声」

 飲食店で考えてみると、わかりやすいかもしれない。

 

 ──突然ですが、僕は「がってん寿司」が好きです。寿司チェーン店は数あれど、なかでも好印象を持っているのが「がってん」でござる。海無し県・埼玉県民にとっての聖地。

 特に、海産物を食べる機会が少なかった埼玉男児にとっては、ある種のアトラクションですらあった。週末に家族で出かけ、どこかで食事をするならば、国道沿いの「がってん」がジャスティス。「おやじー! がってん寿司あるぞー!」と叫び、車を止めさせたことは2度3度では済まない。

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クリスマスなので、ネオサイタマの回転寿司でおやつを食べてきた - ぐるりみち。

 そんな「がってん寿司」の代名詞と言えば、店内を飛び交う「がってん承知!」の声である。ガタイの良い若い兄ちゃんから、職人オーラを放つおじちゃんまで、店員さんが発する大きな声。とにかく威勢が良く、元気いっぱいで、あの掛け声の聞こえる店内が昔から好きだった。

 もちろん、そのような「声」が響くのは寿司チェーンに限らない。夫婦経営の定食屋・食堂などでもご主人が元気なお店はあるし、全国展開の牛丼チェーンにだって快活なアルバイトさんは少なくない。たとえ事務的なオーダー確認だろうと、そこに不快感を覚える要素は皆無だ。

 

 では、逆に飲食店で不快に感じるような「声」はどのようなものだろう。

 

 当然、人によりけりだとは思う。親子連れで赤ちゃんの泣き声が嫌という人もいるでしょうし、学生もしくはお年寄りグループの大きな話し声が苦手という人だっているかもしれない。回転寿司チェーンの掛け声だって、苦手意識を持っている人がいても不思議ではない。

 そういった各々の基準の違いを除いても、おそらくはほとんどの人が好ましい顔をしないのが、冒頭で書いた「怒声」なのではないかしら。やたらと口汚くクレームを入れる客はもちろんのこと、怒鳴り声でもって後輩を指導する先輩店員に悪印象を抱くようなケースもある。

 

 それが街中──屋外であれば、全く無関係な人間のいざこざとしてスルーすることもできるけれど、そこは飲食店の店内。相手が赤の他人であれど、壁で囲まれた同じ空間にいる以上は嫌でも気になってくるし、食べ終えて会計するまでは逃れることができない。

 見ないようにそっぽを向こうとも、どうしたって「音」は聞こえてくる。場合によってはイヤホンで自衛することもできるものの、食事に来ている場で耳をふさぐのも……と躊躇われるところ。そりゃあゴローちゃんじゃなくても物申したくなるし、アームロックもやむなしである。

 

「声」に乗せられた感情は他者に伝染する

 同じ声量で、同じ店員さんが発する「らっしゃーせぇ!」は気持ちよく聞けても、「そうじゃねぇって言ってんだろ! アァン!?」は不快に感じてしまう。

 「今日は機嫌が悪いから、赤ちゃんの声ですら耳障りに聞こえる」といった「気分」の問題ではなく、どれだけその瞬間に気分が良くても「ちょっとそれは……」と感じ、モヤモヤがわきあがってきてしまう。怒鳴り声が響く空間に、好んで留まりたいとは思えない。

 

 「大声」は良くても、「怒声」は許せない。そこにあるのは、言うまでもなく「感情」の有無であるように見える。発話者の声色や表情に、「怒気」が含まれているか否か。

 どこまでの「怒声」なら許せるか──という許容範囲は、これまた人によって変わってくるとは思う。けれど、ネガティブな感情が乗った「声」は自然と周囲の人間に伝わり、少なからず何かしらの影響を及ぼしているんじゃないかとも思うのです。

 だって、そうでなければ、見ず知らずの「悪質なクレーマー」の目撃談がネットに挙がってくることもないはず。無視することもできるのに、わざわざどこかに書いてしまうのは、それが強く意識に残り、理不尽な出来事として吐き出したくなるからなのではないかしら。

 

 何も「怒り」の感情はすべて我慢しろ、強い物言いは避けるべき、とまでは言いません。それが自然とわきあがってくる感情の波である以上、無理に我慢し続けるのも良くないように思うし、自分の主張や想いを相手に伝えるため、時には必要となる場面もあるでしょう。

 ただ、最近思うのは、「怒り」という感情は「伝わりすぎる」ようにも見えるんですよね。「自分は怒っている」という想いだけ、あるいは「それは間違っている」という断固とした否定、相手を抑制せんとする意図だけがストレートに相手に伝わる、あまりに強すぎる感情であるような。

 それゆえに、本来ならば伝える相手ではない、無関係な周囲の人間にまで拡散して、そのネガティブな側面だけが伝わってしまっている。だからこそ、街中や飲食店で耳にする「怒声」に対して不愉快さを覚え、気にかけてしまうことがあるのではないのかな、と思いました。

 

 これって多分、「怒り」に乗せられた「理不尽さ」が少しでも解消されれば、また印象が変わってくるんじゃないかとも思う。怒っている人の話し声が聞こえてきた、だけど、続く言葉でその理由や改善策もしっかりと話されていて納得した──みたいな。

 そう考えてしまうのは、もしかすると、自分にとって「怒り」=「理不尽」というイメージが強いせいなのかもしれない。「怒り」の原因となる「理由」まで想像することができず、ただ無為に感情を爆発させていると思い込んでいる形。……それはそれで、ちと問題な気もする。

 特に、街中の「怒声」に関しては、赤の他人の叫びであるために断片的にしか事情が窺い知れず、「理不尽さ」だけを汲みとってしまっているのかな、と。怒っている身近な友人に対しては、理由を聞いて諌めることができても、街中で見る他人にはそれができない。スルーが吉っぽい。

 

 ──とまあ、長々と書いてきた割に、「街中で聞こえてくる『怒声』って、あまり気分の良いもんじゃないよね」 → 「でもそれって、自分が気にしすぎなだけなんじゃね……?」という、自己完結以外の何物でもない話になってしまった。

 ネガティブな感情を爆発させている人を見るとあまり良い気持ちにはならないけれど、かと言って「不愉快だからやめろ」なんて言ってしまうと、無関係な人間の感情まで矯正しようとしているみたいで、それはそれで問題ですし。周囲の感情に振り回されない人間になりたひ。

 やっぱり、僕が気にしすぎなのかしら……と思う一方、「怒り」の使い方に関しては、考える余地があるようにも感じたのでありました。今こそ、「激おこぷんぷん丸」を再考するとき……!(しない)

 

 

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