ぐるりみち。

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「一番古い記憶」と「夢」のはなし

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 “自分にしか書けないこと”にはどんなものがあるだろうか。間違いなくだれにでもそれがあると断言できるものがある。それは記憶だ。いつの記憶でもよいのだが、限定するとすれば「一番古い記憶」としてみるとわかりやすい。

 記憶は、その当事者にしか思い当たらない。そしてことばでわかるように伝えない限り、決して他人には理解できない。その意味で“自分にしか書けないこと”を“だれが読んでもわかるように書く”材料として最適なのである。

(筑摩書房『高校生のための文章読本』P.69より)

 

 「一番古い記憶」と、思い出を分類する「タグ」の存在

 自分の「一番古い記憶」を探って思い出されるのは、年齢にして3〜4歳くらいの頃、札幌市内に住んでいたときの出来事だ。より正確に言えば、それが現実の “出来事” としてあったかどうかも怪しい、モノ・コトの断片的なイメージに過ぎないけれど。

 

 まず思い浮かぶのは、「防火シャッター」と、その内側にいる幼い自分と母親。

 

 場所はどこかのスーパーマーケットの屋内らしい。しかし、一般的なスーパーとは思えないほどに天井が高く、商品は雑多に積み上げられており、どちらかと言うと「倉庫」に近い謎の空間。そんななか、音を立てて徐々に閉まりつつあるシャッターを、自分は見つめている。

 ――もちろん、これは実際の出来事ではありません。ガキンチョだった自分が記憶している、最初の「夢」。それがこの、 “シャッター” のイメージだった。何歳のときに見たかは覚えておらず、しかも実際の出来事ではないけれど、これが第一の「一番古い記憶」の候補でござる。

 

 第二に思い出されるのは、「我慢」と「絶望」の記憶。

 

 いつかの休日、3階建のアパート前の駐車場に戻ってきた両親と自分。荷物を先に運ぶため、車を降りて上階へ向かう父と母。あとには、シートベルトを締めたまま取り残される自分。そして数分後、車に戻ってきた母親が見たのは、「もらしちゃった……」と涙目で俯く僕の姿だった。

 ――こちらは、僕自身がはっきりと記憶している一種の「黒歴史」であり、大きくなったある日、ふと話してみたところ、母親もバッチリ覚えていた。軽い尿意なら堪えられるだろうという慢心が招いた「絶望」と、ひとりぼっちで戦い続けた「我慢」の記憶である。慢心、ダメ。ゼッタイ。

 

 もうひとつ、印象的だったのは「雪」にまつわる記憶。

 

 具体的なエピソードというよりは、札幌に住んでいた当時の「雪景色」のなかで体験した印象的な出来事が、いくつかバラバラに記憶されている感じ。――おもちゃのスキーで父親と滑ったとか、さっぽろ雪まつりの「氷の滑り台」で遊んだとか、幼稚園のバスが軽く事故ったとか。

 これらの記憶は、「一番古い記憶」とは少し異なる文脈にあるようにも思う。しかし他方では、当時住んでいた “札幌” という土地ならではの風景と思い出として、ガキンチョの頃の記憶を掘り返そうとすると、決まって想起される出来事であることは間違いない。

 

 そのように考えていて、ふと思った。転勤族の家庭で育った自分*1は、子供の頃の記憶や思い出を「土地」との結びつきで覚えているのではないか、と。

 その出来事に関係のある「モノ」「コト」「ヒト」のほかに、「どこに住んでいたときの記憶か」という要素が、記憶と強く紐付いているように感じる。言い換えれば、記憶を分類する一種の「タグ」として、「土地」の存在が果たす役割が大きいような。

 具体的には認知神経科学の話になりそうなので、門外漢の僕にはさっぱりですが。でも、「その人がどのように過去の出来事を記憶しているか」って、いくつかのパターンがあってもおかしくなさそうな気はする。自分には、独立した個々の思い出を結びつける「土地」の要素があるように。

 

夢のような記憶、記憶のような夢

 なんやかんやと書いてみたはいいものの、「記憶」なんて実際は曖昧なものでござる。つい最近の出来事ですら、時には都合のいいように書き換えられてしまうくらいですし。

 そう考えてみると、言語化して他人に伝えるのが難しい過去の「記憶」って、まるで「夢」のようだなーとも思えてくる。たとえ実際にあった出来事でも細部は思い出せず、ふわふわと不確かで、うまく形にしようとすると、創作であるかのようにも感じられてしまう。

 

 一方では、「夢が記憶の整理整頓をしてくれる」なんて話もある。それならば、古い記憶を意図的に掘り返そうとする試みは、自ら「夢を見る」行為だと言い換えられるんじゃなかろうか。忘れてしまうこともできる過去の出来事を、自分にとってわかりやすいよう整理し、形にする作業。

 であるならば、自分にとっての「一番古い記憶」が「夢」なんじゃないかという先ほどの話も、割としっくりくるように思えてくる。そもそもが不確かな数十年前の「記憶」なんて、言ってしまえば「夢」みたいなもの。変に過去の喜怒哀楽に浸るよりは、 “夢見る” くらいがちょうどいい。

 

 とは言え、過去の大切な思い出はやっぱり覚えておきたいな、とも思う。今は写真として一瞬を切り取ることもできるし、ひとつながりの映像を動画として記録することもできるし、その時々を「残す」手段は多種多彩。不確実な「記憶」に頼るまでもない。

 それでも、不確実で不安定で曖昧模糊としているからこそ、今に至るまで自然と残り続けている「思い出」が、時に愛おしく感じられるのかな、とも。悪夢も黒歴史も古き良き少年時代も、ぜーんぶまとめて「懐かしい」「クソワロタ」と思い返すことのできるすばらしさ。

 

 「記録」と「記憶」の両面から、たまには過去を楽しむのも悪くない。そんなことを、パソコンに向かいながらぼーっと考えておりました。

 

お題「一番古い記憶」

 

 

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