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ぐるりみち。

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「習うより慣れよ」は正しいの?「学ぶ」と「習う」の違いを考える

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 春は、新たに「学習」を始める季節。

 学問においてはまず基礎知識を学ぶことに始まり、勤労の場面ではそれに加えて現場での実地訓練も行われる。――でもアレっすよね、 “OJT” だのなんだのと言うけれど、結局は現場への丸投げ&勝手に学べスタイルなんじゃ……ゲフンゲフン

 ともあれ、新しく何かを「学ぶ」にあたっては、教科書やハウツー本が役に立つ。もしくは書物に頼らずとも、その道の先人に教えを請い「習う」ことだってできる。最近は「いかにして効率よく勉強するか」といった方法論も人気らしく、書店でその手の本を目にすることもしばしば。

 そんな「学び」や「習い」について、少し思ったことをつらつらと。

 

先人から「型」を教わるということ

 新しい生活、新しい職場、新しい環境。 “おニュー” 尽くめの季節には、その場にいる先人に教えを請う機会も多くなるのではないかしら。学校で教科書を買うとか、職場で先輩から仕事を教わるとか、習い事の手ほどきを受けるとか。

 何か新しいことを始めるにあたっては、言わずもがな、その指針となる存在が必要だ。「ドイツ語を覚える!」と急に言っても、門外漢には何から手を付ければいいのかさっぱりだし、「探検家になる!」と突如として決意しようと、どういった技術や知識が求められるかはわからない。

 

 ゆえに、その道行きを示してくれる「地図」や「羅針盤」のようなものが必要になるわけで。入門書があるなら「書物」に学び、身近にその筋のプロがいるなら「人」に習う。まったくの無知な分野に飛び込むにあたっては、外部からの知識や技術の修得・習得は不可欠だ。

 そのための手段――書物や人などを引っくるめて、外部から習い、己が身に付けるための学びの形が、いわゆる「型」と呼ばれるもの。知識体系、方法論、テンプレート……など、呼び方はさまざまなれど、ここでは諸々をまとめて「型」と表現してしまいます。

 

 というのも、「型」という言葉は「守破離」の考え方に紐付けることができる。師の教えを “守 ”り、身につけたそれを自分に適した形へと “破” る過程を経ることによって、既存の知識・技術から “離” れた方向へと自由になることができる……という、アレ。

 Wikipediaではこの表現について、 “個人のスキルをレベルで表している” ことから、 “世の中の全ての作業” に当てはまるとして、次のように例示している。

  • 守:支援のもとに作業を遂行できる。 ~ 自律的に作業を遂行できる。
  • 破:作業を分析し改善・改良できる。
  • 離:新たな知識(技術)を開発できる。

 “かたなし” では、そもそも新たな着想を得ることは叶わず、分析するべき内容もわからず、すべては机上の空論で終わってしまう。なればこそ、書物にせよ何にせよ「先人の教え」は必須条件であり、外から習い、学びを得なければ、どこへ向かうこともできないと言えるだろう。

 

「学ぶ」こと、「習う」こと

 ところで、「学ぶ」だの「習う」だのと言うけれど、この2つの表現に違いはあるのだろうか。個人的な印象としては、「学ぶ」は自発的な試みであり、「習う」は受動的に教えて “もらう” ようなイメージだったのだけれど……。まずは、困ったときの国語辞典。

  1. 勉強する。学問をする。「大学で心理学を―・ぶ」「同じ学校で―・んだ仲間」
  2. 教えを受けたり見習ったりして、知識や技芸を身につける。習得する。「よく―・びよく遊べ」
  3. 経験することによって知る。「苦労して人間のすばらしさを―・んだ」
  4. まねをする。
  1. 教わったことを繰り返し練習して身につける。けいこする。「夜ふけに一人でダンスのステップを―・う」
  2. 知識や技術などの教えを受ける。教わる。学ぶ。「父から将棋を―・う」「中学で―・った先生」
  3. 経験を積んで、なれる。習慣となる。
  4. 慣れ親しむ。

 こうして見ると、「習う」の意味のひとつとして「学ぶ」の項目があることから、「習う」のほうが広い意味で使われていると捉えられなくもない。 “稽古” という表現もあるので、学問に限らず、あらゆる知識や技術を外部から得ることが「習う」であると考えられる。

 一方、「学ぶ」の意味に目を通してみると、どちらかと言えば “学問” の分野で使われることを主とした説明であるように見える。3つ目の “知る” という表現にも認められるとおり、獲得した知識や経験を、自ら言語化できるレベルにまで落としこむことが「学ぶ」であると感じられた。

 

 また、いずれの言葉も、3つ目の説明には “経験” という表現があるが、続く表現が異なっている。「学ぶ」では “知る” 、「習う」では “なれる” 。この項目の差異だけを取って考えるなら、「学ぶ」は知識面での “修得” であり、「習う」は身体面での “習得” だとも考えられそうだ。

 言うなれば、「学ぶ」は知識・頭脳的なものであり、「習う」は技能・身体的なもの。2つを引っくるめて、あらゆる経験を外部から取り入れる「学習」という言葉が成り立っている――と言えるではないかしら。自発or受け身という比較は、主観的なものでしかなさそうっすね。

 

「習うより慣れろ」とは言うけれど

 ところで「習う」と言えば、「習うより慣れよ」という慣用句がある。 “知識として教わるよりも、実際に体験を通じて慣れていくほうが、習得は早い” *1という意味だが、先ほどの「習う」の3つ目の意味に “なれる” の表現があったことを鑑みれば、「習う」の発展形だと捉えられなくもない。

 また、先の「守破離」の考えに立ち返れば、ちょうど “守” の部分に当てはまる視点だとも考えられる。基本形を繰り返し、とにかく目の前の事に当たる。それによって自ずと知識と経験が蓄積され、次のステップに進める――というものだ。素振りは基本。ロイド安藤もそう言っている*2

 

 「守破離」にせよ「習うより慣れろ」にせよ、何かを学習するにあたって有用な考え方であることは間違いない。――けれど実際のところ、その効果の程には、条件があるようにも思う。

 ざっくりと言えば、多くの先人の存在によって、ひとつの「型」が完成させられているか否か。長きにわたって研究されてきた学問や、それ自体がひとつの技術、あるいは競技として確立している分野では、これらの考え方にも妥当性があると言える。積まれた研鑽の集大成が既に存在し、身近な先輩や師も、それらに習って学んできたからだ。

 

 しかし一方で、誰の目にも明快なルールがなかったり、不確定要素があまりに多すぎたり、不特定多数の参加者各々の思惑ひとつでその場が揺れ動いたりするような分野においては、必ずしも「守破離」や「習うより慣れろ」が機能するとは言い切れない。

 特に新しい分野においては、それが顕著だと言える。そもそも「型」が定まっていなくてもおかしくないし、逆に膨大な数の「型」が併存しており、方法論そのものが頼りにならないケースがあっても不思議ではない。参加者全員が、 “ぼくのかんがえたさいきょうの” を主張しているような。

 

 昨今、特定のジャンルに限定されない、全学問を横断した「効率的な勉強法」の本が人気を博しているのも、もしかするとそういった影響によるものなのかもしれない。「新しい学問」の登場や「型」の多様化。――もちろん、単に「時間がない」という理由も大きいでしょうが。

 そんなとき、前提として「自分が何のために、どのように学んでいくのか」という部分に考えが及んでいるのなら、なんら問題はない。最終目的や目標、手段の可視化と妥当性、具体的な展望と、その過程の方法論。諸々を明らかにしたうえで、目の前の道を突っ走ればいい。

 

 けれど、そういった “自分の前提” を明らかにしないまま、「人気の入門書らしいから大丈夫だろう」「この人の言うとおりにすれば間違いない」などと安易に乗っかってしまうのは、ちょっと怖いようにも感じる。既存の「型」が、必ずしも自分に当てはまるとは限らないのだ。

 それもこれも、「時間がない」から仕方ないのかもしれないけれど……「こうしておけば確実だ!」なんて、 “魔法” のような方法論は存在しないと思ったほうがいい。魔法にはそれを魔法たらしめている理由があり、それを自分なりに紐解いてみれば、自分には合わない悪手だったり、もっと別にうまくいく方法が見つかったり――なんてこともあるはずだ。

 

 ある物事に取り組むにあたって、先人に「習う」ことが有用である一方、無思考に「倣う」だけでは、本来得られたはずの知識や経験を素通りし、見逃してしまうことにつながるかもしれない。

 そうならないためにも、学習を始める前段階として、 “自分の前提” を確認しておく作業は必要だと思う。何を目的とし、その達成のためには何が必要で、どのような方法でもって学習していくか。それは本当に、妥当な手段なのかどうか。

 考え、選び、実践し、常に試行錯誤し続けていく気概が大切。でも、寄り道した道中でだって、別に得られる “何か” があるかもしれない。ただただ無為に通り過ぎないためにも、指針や軸といったものは重要だと思ったのでした。

 

 

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