読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ぐるりみち。

日々日々、めぐって、遠まわり。

「すごい」「やばい」「考えさせられる」〜保留された感想の言語化

f:id:ornith:20150926191709j:plain

 

 先日、10代の9割が「やばい=すばらしい」という意味で使っているという調査結果が話題になっていましたが*1、これはもはや一種の相槌のような表現で、そこに具体的な意味を求めるものでもないんじゃないかと思う。

 打てば響くように喉元からポロッと零れ落ちた素直な感情であり、感想。味が好みの食べ物を口に入れれば「おいしい」、痛覚に訴えるような衝撃が身体に加われば「痛い」、興味深い・心惹かれる・笑えるコンテンツに触れれば「おもしろい」。それらと同質の、自らの感情の発露。

 

 そんな「端的な感想」や「感情の表現」について、つらつらと。

 

 

「一言の感想」に付随して伝わる、多彩な「感情の情報」

 冒頭に挙げた表現群は、いずれも全く具体的ではない言い回しではあるけれど、それが対面コミュニケーションであるかぎり、「余計な言葉は必要ない」という指摘もあながち間違いではないと思う。

 “思い内にあれば色外に現る”の言葉どおり、あまりに端的すぎる「感想」の表現からも読み取れる感情は少なくない。声色や表情、身振り手振りに呼吸の変化など、同じ「おいしい」という一言であっても、その付加情報から把握される感情は少なくない。ひとつとして、同じ「まいうー」はないのです。たぶん。

 

 しかし、そういった外部情報を遮断された「文章」の場合には、「やばい」では驚くほどに何も伝わらない。例えば、朝方のTwitterで「電車が混みすぎてやばい!」なんてツイートを見ても、それだけでは何が「やばい」のかわからない。

 混み具合が尋常じゃないのかもしれないし、混雑によって電車が遅延し、会社や学校に遅刻しそうになっている自分の現状を指しているのかもしれない。あるいは、他に何かもっと「やばい」状況に直面しているのかもしれない。なんか知らんが地球がヤバい。

 

 ちょっと前に、どこかのブログかニュースサイトで「『やばい』と感じたのならそれ以上の感想はいらない、率直に『やばい』と書けば良い」というような意見を目にしたような記憶があるのだけれど*2、それで筆者の感情・感動がどれだけ伝わるかは疑問です。

 ただの文字列では、個人の感情を伝えるには心もとない。だから、語彙表現でもって“言葉を尽くす”必要があるのだし、時にはデータや比較材料を持ってきてその優位性を説明したりもする。フォントをいじって視覚に訴えかけようとするなど、さまざまな策も講じる。

 

 けれど、どれだけ言葉を尽くそうと、語彙力を持った人が文章で自分の感情を“表現”しようとも、等しく万人に「伝わる」文章は存在しない。単純な話、読み手が正しく言葉を理解していなければそれまでだし、前提として理解されている文脈も人によってバラバラ、表現の好き嫌いだって当然にある。

 なればこそ、万国共通に“伝わる”表現の「顔の表情」を写した画像を一枚載せるだけで、伝えようとした「やばい」の文脈が圧倒的に伝わりやすくなるわけで、そういった“わかりやすい”コンテンツが読まれやすい傾向にあるのではないかしら。……そりゃあまあ、髭面のむさいオッサンが泣きながらじゃがバターを頬張っている写真の下に「やばい」と書いてあったら、別の意味で「やばい」と解釈されるかもしれないけれど。やばい。

 

 もちろん、自分の自由に書くことをモットーに運営しているブログだったら、そんなことは意識する必要もないのですが。ただ、少なからず何かを“伝えよう”という意図でもって文章を書くのなら、「表現」を妥協するには、諦めるのが早過ぎるんじゃないかと思いました。はい。

 

 だってほら、「宇宙ヤバイ」のコピペ*3とか見てくださいよ。なんか知らないけれど、むちゃくちゃその“ヤバさ”と“スゲェ”が伝わるじゃないっすか。00年代前半頃のスレが元ネタらしいけれど、汎用性高すぎじゃないっすか。やべえ。

 

「保留された感想」を言語化する

 

 前置きがやたらと長くなってしまいましたが、先日、こちらの記事を読みまして。「考えさせられる」という感想表現は、それこそ“考えさせられる”言い回しではあるのですが、今回はちょっと別の方向で“考えさせられ”たので。こちらに書かれているとおり、“それっぽい”んですよね。

 

 「考えさせられる」に関して言えば、どうも「共感」的な意味合いを含んでおり、“考え”という言葉を含んではいるものの、感情本位の“思う”に近いような気がする

 (中略)

 言い換えれば、「考えることを考えようと思った」

「考える」を考え、「思う」を思い、「考えさせられる」から始める

 

 なんとなく既視感があったので自分のブログを検索してみたら、過去にこんな記事を書いておりました。

 で、これをまたさらに言い換えると、先ほどの「すごい」「やばい」も含めた「端的な感想」とは、言わば「保留された感想」という見方もできるんじゃないかな、と。何かに触れて、瞬間的にポロリした感情の欠片であり、言語化にはまだ至っていない、保留状態の自分の気持ち。

 

 ――いや、まあ、そもそも「感情」なんて曖昧なものをわざわざ言語化しようなんてこと、必要ないっちゃ必要ないんですが、そういうのが好きな人も中にはいるんですよ。僕とか、僕とか、あと、僕とか。めんどくさくって、やーねー。

 さすがに、普段の生活の中で感じた「すげえ」や「やべえ」について、その場ですぐに、「つまり、僕がいま感じた『すげえ』とは、こうこうこういう理由で『すげえ』のであって……」とか分析し出したらドン引かれそうだけれど。でも、自分一人になったときにそれを思い返す行為には意味があると思うんですよ。

 

 遡れば、小学校で書かされていた「日記」や「感想文」といったもの。当時は「めんどうやなー」と適当に埋めていた人も多いかと思いますが、その時その瞬間の自分の想いを言葉にしようとする作業って、他者とコミュニケーションをする際には自然とやっていることなのでは。

 大人になってからもそうした「日記」や「感想」、広い意味での「アウトプット」が推奨されるのは、「自分の考えを整理するため」というだけではなく、「自分の感情を明らかにして他人と話すため」でもあるのではないかと。――って、書きながらふと思いました。

 

 もちろん、普段から他者と関わり、コミュニケーションを取っている人ならばその必要もないとは思う。日記を書くことで自分の感情を整理し、他人との交流に備えるのが“準備運動”だとしたら、日頃の対面コミュニケーションは“実戦”であるわけですし。OJTだ!

 ただ、中には仕事環境や生活環境の理由から、そうもいかない人もいるもので。そんな人にとっては、こうした「保留された感想」を言語化することにも大きな意義があるのではないかしら。いざという、誰かと話すときのための、準備運動。

 

 特に、「考えさせられる」という感想は後者にかぎらず、モヤモヤして定まらない自分の想いを明らかにするきっかけとして優れているようにも見える。単純な「すごい」でも「やばい」でもなく、別種の感情が入り混じっていそうなイレギュラー。これは良いポロリ。

 僕も大学生の頃なんかはよく「あー、考えさせられるわー、マジ意味深だわー」なんてよく言っていたけれど、最近はあまり口に出さなくなったような気がする。おそらく、「考えさせられる」と口に出す前に、それを言語化するべくブログに向かっているからなんじゃないかな……。

 

 ――と“考え”ると、根っこの部分がぼっち気質の自分は、いつもブログを通して読者さんと話している……と見せかけて、実は「ブログ」という鏡に映る自分と話しているのかもしれない。ぶろぐはともだち。

 

 そんなこんなで、特にオチも考えずにつらつらと書きだしたのでアレですが、「『すごい』や『やばい』を深掘りしてみたら楽しいんじゃない?」という、ふんわりした結論で。

 ……つまり、アレっすよ。「キミもブログで、その『すごい』や『やばい』の正体を暴いてみないかい!?」みたいな。ブログ、やりません?

 

 

関連記事