「すごい」「やばい」「考えさせられる」〜保留された感想の言語化


 先日、10代の9割が「やばい=すばらしい」という意味で使っているという調査結果が話題になっていました*1。でも、これはもはや一種の「相槌」とか「感嘆符」的な表現であり、そこに具体的な意味を求めるものでもないんじゃないかと思う。

 打てば響くようにポロッと零れ落ちた、素直な「感情」であり「感想」。味が好みの食べ物を口に入れれば「おいしい」、痛覚に訴えるような衝撃が身体に加われば「痛い」、興味深い・心惹かれる・笑えるコンテンツに触れれば「おもしろい」と口にするような、自らの感情の発露に過ぎないのでは……?

 そんな「端的な感想」や「感情の表現」について、思うことをつらつらと。

 

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「一言の感想」に付随して伝わる、多彩な「感情の情報」

 冒頭に挙げた表現はいずれもまったく具体性のない言い回しではあるものの、それが対面コミュニケーションであるかぎり、「余計な言葉は必要ない」という指摘もあながち間違いではないと思う。

 “思い内にあれば色外に現る” の言葉どおり、端的な「感想」の表現からも読み取れる感情・情報は多くある。声色や表情、身振り手振りに呼吸の変化などを見れば、同じ「おいしい」という一言であっても、その付加情報から把握される感情は少なくない。ひとつとして、同じ「まいうー」はないのです。たぶん。

 

 しかし、そういった外部情報を遮断された「文章」の場合は話が別だ。「やばい」だけでは、驚くほどに何も伝わらない。たとえば、朝方のTwitterで「電車が混みすぎてやばい!」なんてツイートを見ても、それだけでは何が「やばい」のかわからない。

 混み具合が尋常じゃないのかもしれないし、混雑によって電車が遅延し、会社や学校に遅刻しそうになっている自分の現状を指しているのかもしれない。あるいは、ほかに何かもっと「やばい」状況に直面しているのかもしれない。なんか知らんが地球がヤバい。

 以前、どこかのブログかニュースサイトで「『やばい』と感じたのなら、それ以上の感想はいらない。率直に『やばい』と書けばいい」という意見を目にしたような記憶があるのだけれど、それで筆者の感情・感動がどれだけ伝わるかは疑問に思う。

 ただの文字列だけでは、個人の感情を伝えるには心もとない。だからこそ、僕らは語彙を用いて「言葉を尽くす」必要があるのだし、時にはデータや比較材料を持ってきてその優位性を説明したりもする。あるいは、フォントをいじって視覚に訴えかけようとするなどの策だって講じる。

 

 しかし、そうやってどれだけ言葉を尽くそうと、残念ながら、等しく万人に「伝わる」文章は存在しない。単純な話、読み手が正しく言葉を理解していなければそれまでだし、前提として理解されている文脈も読者によってバラバラ。特定の表現を嫌悪している人だっているかもしれない。

 なればこそ最強なのは、万国共通に伝わる表現である「顔の表情」。それを写した画像を一枚載せるだけで、伝えようとした「やばい」の文脈が圧倒的に伝わりやすくなる。ゆえに、YouTuberをはじめとした「わかりやすい」コンテンツが好まれる傾向にあるのではないかしら。

 もちろん、自分の自由に書くことをモットーに運営しているブログだったら、そんなことを意識する必要はありません。ただ、少なからず何かを「伝えよう」という意図でもって文章を書くにあたって、「表現」することを妥協してはいけないとも思うのです。……というか、諦めるのが早過ぎる気がする。

 だってほら、「宇宙ヤバイ」のコピペ*2とか見てくださいよ。なんか知らないけれど、むちゃくちゃその“ヤバさ”と“スゲェ”が伝わるじゃないっすか。00年代前半頃のスレが元ネタらしいけれど、汎用性高すぎじゃないっすか。やべえ。

 

「保留された感想」を言語化する

 また、「やばい」と同じように汎用性の高い表現として、「考えさせられる」という感想表現もある。自分も過去に以下のような記事を書いています。

 

 「考えさせられる」に関して言えば、どうも「共感」的な意味合いを含んでおり、“考え”という言葉を含んではいるものの、感情本位の“思う”に近いような気がする

 (中略)

 言い換えれば、「考えることを考えようと思った」

「考える」を考え、「思う」を思い、「考えさせられる」から始める

 

 で、これをまたさらに言い換えると、先ほどの「すごい」「やばい」も含めた「端的な感想」とは、言わば「保留された感想」という見方もできるんじゃないだろうか。何かに触れ、瞬間的にポロリした感情の欠片であり、言語化にはまだ至っていない、保留状態の自分の気持ち。

 日常生活を過ごすなかで感じた「すげえ」や「やべえ」を、その場ですぐに言語化できる人はそうそういない。「僕がいま感じた『すげえ』とは、こうこうこういう理由で『すげえ』のであって……」とか分析しはじめたらびっくりする。僕なんかはそれができないからこそ、あとになって自分なりに思い返し、こうやって文章として言語化しようとしているわけです。

 この「保留された感想」を言語化する作業としては、小学校で書かされていた「日記」や「感想文」にまで遡れると思う。当時は「めんどうやなー」と適当に埋めていた人も多いでしょうが、その瞬間の自分の気持ちを言葉にする作業って、他者とのコミュニケーションにおいては欠かせないものなのではないかしら。

 大人になってからもそうした「日記」や「感想」、広い意味での「アウトプット」が推奨されるのは、何も「自分の考えを整理するため」というだけではなく、「自分の感情を明らかにして他人と話すため」でもあるのではないかと。──というように、いま書きながらふと思いました。

 

 もちろん、誰かと話しながら感情を言語化できるのであれば、わざわざアウトプットの時間を設ける必要はない。日記を書くことで自分の感情を整理し、他人との交流に備えるのが「準備運動」だとしたら、日頃の対面コミュニケーションは「実戦」。常にインプットとアウトプットを行き来できる人は強い。

 ただ、誰もがそのように頭がまわるわけでもなく、そのようなコミュニケーションに慣れていない内向的な人もいるわけで。そんな人にとっては、先ほど触れたような「保留された感想」を言語化する作業にも大きな意義があるはず。いざ誰かと話すときのための、準備運動。

 特に「考えさせられる」という感想については、モヤモヤして定まらない自分の思考を明らかにするきっかけとして、非常に優れているように感じる。単純な「すごい」でも「やばい」でもなく、別種の感情が入り混じっていそうなイレギュラー。これは良いポロリ。

 僕も大学生の頃なんかはよく「あー、考えさせられるわー、マジ意味深だわー」なんてよく言っていたけれど、最近はあまり口に出さなくなったような気がする。おそらくは「考えさせられる」と口に出す前に、それを言語化するべくブログに向かう習慣ができたから……じゃないかしら……。

 

 以上のように “考え” ると、根っこの部分がぼっち気質な自分は、いつもブログを通して読者さんと話している──と見せかけて、実は「ブログ」という鏡に映る自分と話していたのかもしれない。ぶろぐはともだち。

 そんなこんなで、特にオチも考えずにつらつらと書きだしたのでアレですが、「『すごい』や『やばい』を深掘りしてみたら楽しいんじゃない?」という、ふんわりした話しでした。

 

 

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