ぐるりみち。

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ひとたび「言葉を失う」ことで生み出される「ことば」

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 『高校生のための文章読本』の中で、芥川賞作家・開高健さんの文章が掲載されていた。アウシュヴィッツ強制収容所を訪れた際に、となり町で見た光景――膨大な数の囚人たちの骨の破片が池や土の下に堆積している様子を目の当たりにして、次のように書いています。

(案内の)おばさんがひくい声で話しているのを耳にしながら、私は骨の原にたたずんだまま、言葉を失ってしまった。一度微塵に砕かれてみたいと思っていた予感は冬空のしたで完全にみたされた。すべての言葉は枯れ葉一枚の意味も持たないかのようであった。 

 数々の文学賞を受賞した文章のプロをして、“すべての言葉は枯れ葉一枚の意味も持たないかのよう”であると言わしめる情景と現実。「言葉」が示す表現の範疇はあまりに狭く、しかしそれゆえに確固たる伝達力を持って伝わる「言葉」もあるのだと、考えさせられました。

 

 

情報伝達・コミュニケーション手段としての「言葉」

 世にあまた存在する「言葉」は、意外と脆弱だ。お互いに同じ定義を共有していてすら伝わらない場合があるのに、例えば「自分の好きな意味で使えばいい」と断言してしまったら、それはそもそも「言葉」として意味を成さないんじゃないかと思えてしまう。

 ――だって、そうでしょう? お互いのことを知るための伝達手段として、相互に理解するための媒介としてコミュニケーションを可能にしているそれを「定義は各々の自由!」と決めつけてしまうのは、本末転倒だ。自分にとって都合の良い“響き”が欲しいだけならば、共通言語としての「言葉」はいらない。

 

 しかし一方で、「言葉」は移ろいやすいものでもある。日本語の正しい使い方が云々という主張もたびたび耳にはするけれど、ひとたび大多数の人々の間で“そうだ”と認識されれば、それはもうその「言葉」の意味として定着したと言っても過言ではない。ぜんぜん普通ですよ。

 共通言語としての「言葉」を使う以上、学びを止めることは許されない。「とにかくすべでの流行語を追いかけるべし!」とまではさすがに言わないものの、常にアップデートされゆく「言葉」の変遷を追いかけることで、日々の円滑なコミュニケーションが可能となっているのは間違いない*1

 

 もちろん基本言語としての「日本語」さえ知っていれば、日常生活に困るようなことはない。“ラッスンゴレライ”を知らなくても飯は食っていけるし、“心ぴょんぴょん”できなくても仲間はずれにされることはない。古事記にもそう書かれている。

 しかし、生活の大部分を過ごす特定のコミュニティ集団がある場合には、そこで通用する「言葉」を学び理解する必要も時には出てくる。それが仕事であるならば尚更だ。言うなればそこだけの「方言」のようなものとして、専門用語や流行ワードを共有するように推奨される

 

 ――そうなのです。いつの間にやら壁殴り代行はお役御免となり、「壁ドン」は TOKI☆MEKI をもたらすシチュエーションを示す表現として定着してしまった*2。終身雇用制度なんてなかった。無常である。

 

「パズル」のように、言葉遊びを楽しみたい

 現代っ子であれば自然に流行語を知り、なんとなくその意味合いも把握して、当然のように使うことが常となっている。けれど、その中には表面的な、じゃれ合いのようなコミュニケーションでしかないものも多く、“伝達”としての要素は小さいと言えるかもしれない。

 そんな“じゃれ合い”は、それはそれで楽しいものだけれど、それがいざ、話し合いや議論といった高密度の「コミュニケーション」を求められると、咄嗟に対応できない場合も少なからずあるんじゃないかと思う。単語も話の内容もわかるのだけれど、その先の「目的」や、足元を流れている「文脈」が理解できない。

 

 特にインターネット上の文字コミュニケーションにおいては、はっきりと各々の「言葉」が可視化されてしまうため、表面的な“じゃれ合い”はたちまちに看破されてしまう

 実態の伴わない強い単語、大きな主語、自分ですら定義を知らずに使っている「言葉」は発せられた途端に宙を漂い、消えるのみ。面と向かっての「コミュニケーション強者」の上っ面を、それはいともたやすく剥ぎ取ってしまう。だからこそ、「言葉」は大切に扱わないといけない。

 

 「最近の若者は何でもかんでも検索に頼って……」とも言われるけれど、自分の知らない事象についてはまず、その意味を調べて知らなければ始まらない*3。意味不明な言葉を「なんとなく」で使えば周囲に知れてしまうし、知らずに批判しようなんてもってのほか。

 「情熱さえあればあばばばば!」と宣う方もたまにいらっしゃいますが、それは大前提としての理屈や知識が備わったあとの段階かと。言外に伝わる情報や熱量も確かにあるとは思うけれど、すべての理由をその点に求めてしまうのは、ちょっと怖い。

 

 ある人の頭の中に蓄えられた「言葉」は空想の物語をも描き出し、あらゆる事象を疑似体験させるような強さを持っている。けれど、それだけでは足りない。

 知識として知っている「北海道のデカさ」を数量で表すことはできても、それをより実感の伴った表現でもって伝えるには、自分の体験に裏打ちされた「言葉」を再発見しなければならない。そのために、僕らは一度、知識としての「言葉」を失い、眼前に現れた事象を自分の内からわき出る「ことば」によって、改めて言語化する必要がある。

 

 そう考えると「表現」とは、パズルのようなものなのかもしれない。

 

 たくさんの書物を読み語彙を増やし、「言葉」のピースを集めるだけでは、自分が描き出したいものの完成形を想像することはできない。とりあえずいろいろと試行錯誤し、“言葉遊び”によって生まれる表現はあっても、それはどこか空虚なものになってしまう。

 逆に、さまざまな場所に足を運び、多彩な風景を目にし、自分の身でもって体験を積み重ねようと、それを「言葉」にして表現するためのピースがなければ立ち行かない。大枠を決めて取り掛かることはできても、それだけでは虫食いの穴あきパズルになってしまう。

 

 まずはたくさんの文章を読み、言葉に触れ、自分の中のピースを増やすところから。時にはそれをあれこれ組み替えて遊びつつ、大切に“言葉を選んで”発信するのも悪くはない。

 それだけでも充分に楽しくはあるけれど、より深淵へと潜ろうとするのなら、“言葉を失い”、“微塵に砕かれ”る経験が必要になるのかもしれない。どこかの何かによって自分の「言葉」を破壊され、新たな「ことば」を再発見するような。いつかはそんな道行きに、書を捨て旅へ出たい。

 

 

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*1:その変化が早すぎて混乱しているという側面もありそうですが。

*2:「壁ドン」の意味が変わっている?多義すぎるネットの“壁” - ぐるりみち。

*3:「参照元の不確かさ」という点では、「検索」にも問題はあるけれど。