ぐるりみち。

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情報過多な現代における「消費」の感覚と、「退屈」との付き合い方

 

 リアルでも何度かお会いしたことのあるブロガーさんたちがトークイベントを開催すると聞いて、行ってきました。むっちゃおもしろかった。

 こうした、ブログ界隈のイベントに参加するのも久しぶり。懇親会ではいつも通りの人見知りっぷりを発揮して隅っこで空気を読むどころか空気になりつつ、お酒をチビチビ。ネット上では目に見えないブロガーさん同士、読者さん同士の「横のつながり」が現実のものとして見えて、興味深くも楽しかったです。

 

 さてさて、そんなイベントの内容に関してはおそらく、登壇者さんか参加していたブロガーさんが詳細なレポートをまとめてくれることでしょう(ログを取りそびれた)。

 というわけで、本記事は、本イベントでのお話とそのテーマから考えたことを個人的なメモとして、好き勝手に語った内容となります。まとめて書こうとしたら思いのほか長くなってしまったのと、「恋愛」に関してはいろいろとタイムリーなこともあり、別枠でまとめる感じで。

 

日々の「当たり前」を言語化する

 本イベントは『退屈と消費と、恋愛と。』と銘打っているとおり、「退屈」「消費」「恋愛」がメインテーマ。それぞれのトピックを登壇者のみなさんが掘り下げていきながら時折、会場の反応や意見を取り入れつつ進行していく形で、いち参加者としても考えながら話を聞くことのできる、とても素敵な内容でした。

 当初、自分としては「退屈」と「消費」に関する話を主に聴きに行くような心づもりで会場に向かったのですが、終わってみれば、頭の中を支配しているのは「消費」と「恋愛」に関する雑多な思考。あれれー? 退屈くんはどこに行っちゃったのかなー?

 「退屈」に「消費」に「恋愛」。どれもこれも、自分たちにとっては身近なワード。もちろん、どの程度まで“身近”であるかは個人差があり、自分としては「恋愛」が最もかけ離れたトピックかと思っていたのですが……実は、無縁なのは「退屈」のほうだったらしい。

 

「暇」を認識する瞬間と、「退屈」という感情の在り処

 

 イベント中でも引用されていた本書『暇と退屈の倫理学』。僕はこちらを読んでいないため、どうこう言える立場ではないのですが――ふと思った。どうして、このイベントのタイトルは「暇」でなく、「退屈」なのだろう、と。

 

 「暇」と「退屈」という言葉をざっくりと説明するのなら、ニュアンス的には次のようにまとめられるのではないかと思います。

  • 」……用事のない時間
  • 退屈」……時間をもてあまして嫌気がさした状態、特定の事物に対して関心を失い飽きている状態

 「退屈」に関しては、Wikipediaで当該項目の冒頭部分を拝借しました。要するに、「暇」が示すのは“時間”「退屈」が示すのは“感情”であるという、その言葉が指し示す「対象」に違いがあると考えられる。

 

 その上で思った、というか気づいたのが、「そもそも僕、『退屈』って言葉をほとんど使ったことがなくね?」ということ。日常会話の場で口に出さないのは言うまでもなく、日常的に更新しているブログやTwitterで検索してみても、ほぼ引っかからない。

僕自身、絵画に興味のなかった頃、親に連れられて美術館に行き、退屈に感じていたことがありました。何がいいのか分からないし面白くも何ともない、ただのデカい絵じゃないか、と。

 強いて言えば、このくらい。他の文脈では「退屈だという意見もあるけれど〜」といった、他人の意見や一般論としてこの言葉を使用しているに過ぎず、自ら「退屈だった」とは書かないし、そうした感情を覚えたことも直近の数年ではあまりないんじゃないかと。

 

 例えば、友人が待ち合わせに1時間遅れてくることになるとか、丸一日使うはずだった予定がなくなったとか。そうした“間”、「暇」ができた瞬間に自分が何を感じてきたかと考えてみると、「やったー!○○する時間ができたぜー!」的な感情だったと思う。

 予定されていた内容の好き嫌いに関わらず、「時間ができたなら、別のことをやればいいじゃない」というだけの、自然な転換。近くに喫茶店があれば本でも読めばいいし、家にいるならパソコンで動画サイトでも見ればいい。ちょろっと足を伸ばして、普段は行かないところをぶらり散歩するのだって悪くはない。

 

 同様に、“特定の事物に対して関心を失い飽きている状態”に関しても、それを「退屈」だと感じた覚えはないと記憶しています。というか、そう感じる前に撤退していたような。

 仕事にせよ、勉強にせよ、それがやめられるものであれば「あっ、そろそろ飽きそう」というときには別の興味関心に移行していたし、やめられないものであれば「じゃあ今日はちょっと違うやり方で取り組んでみよう」とマンネリ化を避けるべく意識していたように思う*1

 

 だから、「『暇』ができた」と頭で理解する瞬間はあっても、その先の「だから『退屈』だ」という発想まで至ることは、自分に関してはほぼ皆無なんじゃないかしら。思いもしない「間」ができたなら、それを自分の「関心」で埋めればいいだけのこと。

 これって単純な話、「一人遊びがお上手」という、それだけの話なのかもしれない。自分の興味関心を把握していて、どこへ向かえば心の癒し・刺激と出会えるかの鼻が利く感じ。そこに「他人」の存在は必ずしも必要ではないので、「暇だし誰か呼んでどっか行こーぜー」は不可欠じゃない。

 

 つまり、ぼっち最強。――って考えると、確かに、自分を“ぼっち気質”だと感じている人が「退屈だー」って言っている印象はまったくないような気もする……。

 

「消費」が先か、「退屈」が先か

 イベント中に出た話題のひとつに、「退屈」を凌ぐために「消費」をするのか、「消費」をひたすら続けた結果に「退屈」になるのか、というものがありました。そういう意味で考えれば、自分は間違いなく後者なのでしょう。結果として「退屈」になるかは置いといて。

 

 

 それはきっと、自分があまり「消費」という意識なくコンテンツを摂取していることによるんじゃないかと思ってる。

 世間一般に呼ばれる“オタク”ではあるものの、毎クールごとに何十本もアニメを見ているわけではなく、興味のある作品だけ。Kindleセールのたびに電子書籍の積ん読が増えていくけれど、自分の好きなタイミングで好きな作品を読んでいくだけ。急に迫られて、「消化せねば!」ということにはなりづらい。

 

 もちろんそれは外から見れば、無料にせよ有料にせよ「コンテンツを消費している」ことに変わりはないでしょう。でも、それによって何が“消”え、“費”やされているかと言えば、「それをしたい!」と感じた自分の欲求や、対価としての金銭や時間、そのくらいでしかない。

 他方、その「消費」によって生まれるものと言えば、コンテンツに触れたことで生まれた思考や感慨、満足感などなど。さらに言えば、その感想などをブログやSNSに書き込んだり、作者にファンレターとして送ったりといった諸活動は、「生産」的ですらある。

 

 特にコンテンツ過多、情報過多が叫ばれる現代においては、「退屈知らず」な人が増えていても不思議ではない。次々と生まれる物語やキャラクター、料理やファッションに心震わされ、消費者の感情も再生産され続ける一方でござる。

 とは言え、それによる流行り廃りの加速、クリエイター側が安く買い叩かれるなどの問題も顕在化しているので、そちらは別途対処が必要になってくるのでしょう。ただ、消費者側が「退屈」する暇もなくその恩恵に預かれるという一点では、確かに恵まれているのかもしれない。

 

 一方では、「退屈」な「消費」というのも一部ではやはりあると思っていて、大量のコンテンツを流れ作業で“消化”する「消費」や、周囲から何らかの圧力でもってして強いられる「消費」などが挙げられるかと。さっきの、「無関心な美術館に連れて行かれる」もその一種っぽい。

 基本的には、自分の自由かつ好き勝手な「消費」活動をしていれば、それが「退屈」へと結びつくケースは稀なんじゃないかしら。“愛のままにわがままに、僕は君(クリエイター、趣味仲間)だけを傷つけない”くらいの勢いで楽しみたいところです。

 

予期せぬ出会いをもたらす「未知の世界」の入り口探し

 

 一方では、情報過多によって「ググれば(だいたい)何でも知ることができる」時代においては、想定外の刺激・予期せぬ出会いとお留守になり、それを「退屈」だと感じる趣きも。ぐーぐるてんてーは万能すぎたのだ……。

 そうしたときの対処法としては、「ちょっとそこまで」くらいの感じで、自分の守備範囲内の分野とつながりはあるけど知らない、あるいは、全く異質なジャンルへ飛び込んでみることで、「退屈」を吹き飛ばすきっかけとなるのではないかしら。

 

 

 お手頃なのは、やっぱり「本」だろうか。過去の年月の積み重ねも含めれば、情報溢れる現在でもカバーしきれないほどに大量の本が存在するので、「たまたま手に取った本が最高におもしろかった!」なんてことがあっても珍しくはないかと。

 個人的な最近の「予期せぬ出会い」の場としては、創作同人誌界隈がサイコーにアツい。“科学者向けのフォント本”とか、“和紙の解説本”とか、“遺産相続したので高級寿司を食べてみた”とか、“キッコーマンの豆乳を47製品飲み比べてみた”とか、知らない世界の入門書や、ぶっ飛んだ切り口のグルメ本が多くておもしろい。

 

 もちろん「本」に限らず、週末に少し離れた見知らぬ街をぶらり歩くとか、ライブハウスやDJイベントに行ってみるとか、全くつながりのないオフ会に参加してみるとか、身近な先の非日常は、その辺にいくらでも転がっているものだと思います。そうだ、アニクラ行きたい。

 一口に「退屈」と言っても、代わり映えしない日常にうんざりしているのか、満たされ過ぎているがゆえに感情が麻痺しているのか、いろいろなケースがあるかと。眼前にふと現れた、出会ってしまった「退屈」とどのように向き合うか。その過程すら楽しみつつ、日々を過ごせていけたら幸せだと思う。

 

 「人生は死ぬまでの暇つぶし」なんてよく言いますが、まあそんな感じで。

 

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