ぐるりみち。

平成生まれのフリーライターのブログ。本・映画・マンガ・アニメの各種レビューに、旅行・グルメ・街歩き日記など。

「中学の卒業文集」を読んで、忘れていた当時の記憶が蘇ってきた

 ちょっと前に、こんな記事を書きました。2015年の現在から10年前、2005年当時を主観的に振り返る、といった内容。

 そこで頭をよぎったのが、「もし10年前、自分が既にブログを始めていたなら、当時中学生だった『僕』のリアルタイムの意見も引用することができたんだろうなー」という、 “もしも” の話。

 

 当時はちょうど、「楽天広場*1」でゲーム&マンガの個人ファンサイト的なものを運営していた時期なので、残っていればそれも可能だったのでしょう。けれど、卒業と同時に削除した記憶があるので、今は電子の海の藻屑となっているはず。残念。

 あー残念だなー、見つからないんじゃしょうがないなー……と考えたところで、思い当たってしまった。電子のログはなくとも、物持ちのいい自分のこと。ちょうど10年前、中学3年生と言えば、卒業アルバムも文集も残っているんじゃないか、と。

 案の定、押入れの奥底から発掘されました。せっかくなので、ノーカットでお送りします。

 

卒業文集「中学校生活で学んだこと」

 僕はこの中学校生活で、勉強以外にも様々なことを学びました。その中の一つが、「人との付き合い方」です。

 中学校に入って、本当にいろいろな人と出会いました。真面目な人、面白い人、冷静ない人、騒がしい人、未だによく分からない人もいます。このように、一人一人皆違い、個性を持っています。また、人との付き合い方にも、日常会話、電話、メール、手紙など、いろいろな方法があるため、一人一人、付き合う方法も変わってきます。

 例えば、積極的で大人しい人の場合は、初めて出会った人とはうまくコミュニケーションをとることができないはずです。そんな人の場合は、メールや電話などを使うことで、少しずつ親しくなっていこうとすると思います。

 僕もそのような性格なので、一年生のころはあまり積極的に行動することができませんでした。しかし、二年生、三年生と年ごとに少しずつ積極的になり、「人との付き合い方」というものも分かってきました。昔から言われていることですが、やはり大切なのは自分から積極的に行動することだと、改めて理解しました。また、付き合いだけにとどまらず、その他の様々なことでも、このことは大切なことだと学びました。

 卒業して高校に入り、また新しく多くの人と出会います。その中で、何事にも積極的に、自分を出して生活していこうと思います。また、中学校生活で学んだことも忘れずに、これからの生活に生かしていきたいです。

 最後に、人と付き合う上で大切なことは、自分を出すということと、相手を思いやることだと思います。当たり前といえば当たり前のことですが、とても難しいことなので、少しでも実行できるように努力していきたいです。

 

ひとつの文章から蘇ってきた、当時の記憶

 思春期特有の何とも言えない文章に赤面する前に、まずひとつ突っ込めるのが、3段落目の1行目。どう考えても誤字でしょう、これ。 “積極的で大人しい人” 。おとなしいけど、積極的、とは。控えめだけど、やるときゃやる、みたいな感じかしら。

 おそらくは「消極的」と書くつもりが、誤って「積極的」と書いてしまったものではないかと。次の段落では「積極的」が3回も登場しているし、そちらに釣られたのではないかと想像できる。当時から「長所は几帳面なところです!」なんて嘯いていた気がするけれど、ダメじゃん。

 

 ――と考えたところで浮かんできたのが、「そもそもこれって、原稿用紙に手書きで書いて提出したんだっけ?」という疑問。いくらなんでも、鉛筆――じゃなくて、中学はシャーペンだった――を手にして、真逆の意味の単語に書き間違えるだろうか。覚えている限り、そんなポカミスをした覚えはない。

 

 「あ、そういえば、卒業文集の文章は『情報』の授業の中で書いて提出したんだった」ということを、そこで思い出した。それまではHTMLを学んで簡単なホームページを制作し、「一太郎」*2の使い方を学び、3学期の最後、卒業間際の2、3週間くらいで、文集に載せる文章をパソコンルームで書いていたんだっけ、と。

 そこまで思い出すと連鎖的に、「クラスの中ではPCの扱いに慣れている方だったので、ちゃちゃっと終わらせてネットでFLASH*3を見てたなー」とか、「タイピングに慣れていない友達は居残りさせられてたなー」とか、「そういや提出はフロッピーディスク(!)*4だったなー」とか、いろいろと当時の記憶が蘇ってきた。うわ、懐かしい。

 

 なんとなく文章構成に違和感があるのも、文字数制限があったことによるのかもしれない。同じ文集で他の人の文章と照らしあわせてみても、少なくとも行数制限があったことは間違いない。2、3行目あたり、自分の文の癖を鑑みると、いくつか文章を削ったようにも思える。

 もちろん、これらの記憶は、一部を都合のいい形に書き換えている可能性も否めない。けれど、存在すらも忘れていた卒業文集を目にして、少なからず当時の思い出が蘇ってきたのは事実かと。いやー、内容云々はともかくとして、「記録」って大切っすね。10年前の「僕」との再見。

 

“10年前のボクは今のボクを見て 何を思うのだろうか”

 内容に関してもそれとなーく突っ込んでおくと……突っ込みどころ満載っすね。「勉強以外に思いつく最初の学びが、『人との付き合い方』とかホンマかいな!」とか、「年単位の時間をかけないと馴染めないとか、大丈夫かお前!」とか、「 “こと” が多すぎィ!」とか。

 

 でも一方で、自分らしいっちゃ自分らしい文章でもあるんですよね。小学校の卒業文集を読んだときにも感じたことだけど、文章構成がほとんど今と同じだったり、ブログでもたまに取り上げる文字コミュニケーション云々について既に考えているように見えたり。

 特に、 “昔から言われていることですが” 、 “当たり前といえば当たり前のことですが” とか、いちいち先回りして予防線を張る辺りなんて、今もまったく変わっていないようにも思う。そりゃあね? 人間、10年そこらでそんな大きく変わらないよね?つまり、アレだ。

 

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 10年。あっという間の10年だ。人見知りで臆病者、然るべき場所ではピエロとして電波少年を演じていたあの頃の僕はきっと、「大人」になれば人間関係の悩みからは解放されるのだと、そう信じきっていたのではないかしら。

 自分の好きなゲームやマンガについての個人サイトを作り、レンタル掲示板で顔も知らない仲間とキャッキャウフフしていたあの頃の僕は、まさかその10年後にもネットに居場所を作り、好き勝手にあれこれと文章を書き連ねているなんて、想像もしていなかったのではないかしら。

 

10年前のボクは今のボクを見て 何を思うのだろうか
無言の蔑み投げかけ立ち去る キミは夢見る少年
どこで落としたのかわからない 一途で痛々しいほどのあの狂想を

 

 良くも悪くも “変わらない” ことを是とするか、はたまた、そのようにパッと見ではわからない中から小さな変化を見つけて一喜一憂するか。そもそも、時を経て顕在化した「あの頃」と「今」の差異を比較することに、意味はあるのだろうか。

 

ボクは今年で25になった
それは意外と地続きだった
高校に入ったら 大学に入ったら 20になったら
「大人」という力を手に入れられるわけじゃなかった

 

10年前のボクは 10年後のボクは ボクでしかないのだろう
歩いてきた道で歩くはずの未知で 何が変わるのだろうか

 

 でもやっぱり、「あの頃」の記録をふとした瞬間に発見して読み返せば懐かしく感じるし、何より楽しい。そして「今」、こうして後のことなど考えず、「ただ好きだから」という理由でブログを書いているのもまた、とっても楽しい。ならば、それでいいじゃないか、とも思う。

 たまーになら、過去の「黒歴史」を目の前に突きつけられて、うぐわああああああああ!!! とのたうち回るのも悪くない。良い運動になります(真顔)。進んで「あの頃」の自分に殴られに行くことで、明日への活力になることだてあるかもしれませんし。うん、良いこと言った。

 

※引用歌詞:cosMo@暴走P「R-25」

 

 

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