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ぐるりみち。

日々日々、めぐって、遠まわり。

「感情的な文章」ってなんぞ?すべての文章には感情が宿る

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 インターネットが一般化したことによって、僕らは気軽に自分の感情を「ことば」として可視化し、書き込むことが可能になった。その場で感じた想いをTwitterで呟き、心に訴えかけるコンテンツをFacebookでシェアし、まとまった思考をブログに落とし込む。

 

 その「ことば」の多くは、何かを思い、考え、それを言語化し「文章」として描き出したもの。ゆえに、SNS上に溢れかえる「ことば」の多くは感情本位のものである。そう言っても差し支えないはずだ*1

 しかし、感情本位であるはずの「ことば」を用いて人に何かを正確に伝えようとするのは、思いのほか難しい。なにをおっしゃるうさぎさん、とツッコまれるかもしれないが、意外に伝わらないもんっすよ。誤読・曲解はあって然るべし。

 

 また、個人のブログ論などを読んでいると、「ブログは感情的に書くべし!」という主張がたびたび目に入る。自分の好き勝手に書くだけならば簡単です。問題は、それを読者に対して、どれだけ正確に“伝わる”ように言語化することができるか、という点にある。

 「読者目線」になりすぎれば自分の感情を引っ込めざるを得ない場合もあるし、自分本位に好き勝手に書き連ねてしまえば、文章として“伝わる”ための論理がお留守になる。そもそも一度冷静になって“文章化”している時点で、本質的な「感情」が排除されてしまっているのではないか、という視点もある。

 

 そんな、文章のエッセンスとしても重要となってくる「感情」について。思うことをつらつらと。

 

 

どうしても「感情」本位になってしまいがちなSNS

 短文コミュニケーションが基本となるTwitterやFacebookにおいては、大半の投稿が感情本位によるものだと想像できる。「だるい」「しにたい」「くそわろた」「お◯ん◯んびろんびろーんww」と衝動的な感情を短い言葉によって表現し、他者と交流を図るツール*2

 

 今でこそ、Twitterには、まるで感情を垂れ流すかのように呟きまくっている人も少なくない。しかし、初期の頃は「なにこれ?どうやって使うの?」と混乱している人も多かったように記憶している。

 “いまどうしてる?”と言われても、「え?電車で移動中だけど、それ書く必要あるん?」的な。それが今や、「隣りの席でカップルがイチャツイてる、ウザい」「あー、1限かったりーなー」「そんなことよりおうどんたべたい」などの好き放題である。“なう”は流石に廃れたのかな?

 

 言うなればTwitterは、それまで表立ってウェブ上には現れてこなかった個人の日常、どうでもいい一挙一動を可視化した、と考えられなくもない。リアルの友人に飲み会の席で話す“愚痴”や“雑談”に過ぎなかったヨモヤマを、目に見える形で記録するような。

 もちろん、Twitter以前にも個人サイトやブログ、掲示板などであーだこーだと吐き出している人はいたものの、それも少数派だったように思う。しかも彼らは匿名であり、自分の生活圏に関わる単語や写真などを気軽にアップロードするほどではなかった。その点で、現代のSNSとは趣きが異なります。

 

 そんな感情本位の呟きは、時として問題視され、炎上し、個人が特定されるまでに至ることもしばしばある。最近は“使い方”が周知されたのか、はたまたLINEに移行したのか、全盛期と比べれば圧倒的に減ったように見えるけれど。

 過去にあった炎上案件を鑑みるに、素直な「感情」は他者をも「感情」の渦に巻き込む可能性があり、その波及力は計り知れない。けれど個々の文脈を見ると、中には「自分の意図と違うように伝わってしまっていた」と話す人も散見される。

 

 要するに、自分の内から湧き出た率直な「感情」は周囲へ伝播し、時に過大解釈され、予想外の形で“伝わる”可能性もある。

 それゆえに、短い“感情的な文章”は諸刃の剣であるとも言える。思うように伝わることもあれば、意図せぬ格好で炎上することもある、という点で。

 

“感情的な文章”?

 何となく最初に書いた“感情的な文章”という言葉も、考えてみればなんだかよくわからない表現だ。その逆、“無感情な文章”を挙げるなら、形式の定められた学術論文や、事実のみを記したメディアの報道などが考えられるかしら*3

 

 他方では、“淡白な文章”という言葉も、たびたび耳にする表現だ。淡々と事実のみを書き連ねつつ、自身の感情は最低限の表現で補足的に記しているような。実際、僕の地の文もそうだとツッコまれがちですしおすし。

 けれど、だからと言って「淡白」=「無感情」と断言することはできないと思う。書き手の文章力、読者側の受け取り方によっても変わってくるが、淡々とした文章でも真に迫ってくることは多々あるし、ここぞというところで感情を前面に出すことで“伝わる”ような効果だってある。

 

そもそもあなたが何かを書きたいと思ったということは、それ自体がある種の《ゆがみ》なのだ。いや、それ以前に、あなたがあなたの頭で何かを思考することそのものが、あなたのなかに、そして人間の思考(意識/無意識を問わず)の総体である〈世界〉の森羅万象のなかに《ゆがみ》を創り出す行為なのだ。

 

 山崎浩一氏によれば、人が思考し、それを言語化していることそれ自体が《ゆがみ》であると言う。そしてその《ゆがみ》とは、言い換えれば「感情」のことでもあるのではないかと僕は思う。

 誰かに伝えたいこと、あるいは自分で言いたいことがあるからこそわざわざ「文章」として書き出しているのであり、それがどれだけ淡白だろうが「ことば」として現出している以上、そこには何かしらの《ゆがみ》が創り出されているのではないかしら。

 

 ゆえに、あらゆる「文章」には「感情」の存在が認められても良いはずだ。その“作者”たる個人が、何らかの思考を以ってそれを言語化している以上は。

 

感情表現の手段としてどのような「文章」を選択するか

 そのように考えてみると、SNSやブログといった「個人」のコミュニケーション・情報発信ツールで見られる文章の大半は、文体や語彙の内容に遺憾なく“感情的な文章”であると言える。そこにある違いは、細かな表現手法、ただそれだけだ。

 たくさんのブログを読んでみると、人によって多種多様な書き口があって、本当におもしろい。それは、単なる文体の違いに留まらない。自分の経験を骨組みとして読み手に訴えかける文章がある一方で、権威ある他者の発言を拠り所としていたり、統計や論理によって説得力を保証していたり。

 

 それぞれの書き手による「感情」の表現手法は、読み手によってもまた受け取られ方が変わってくる。例えば自分に関して言えば、淡々と語りながらも感情を小出しにしている文体や、あれこれを表現をこねくり回した“言葉遊び”がおもしろい文章が好きです。

 逆に、やたらどデカいフォントを乱用したり、“俺様”主義で周囲に当たり散らしたりしているような文章は苦手。でもそのコメント欄を見ると、「さすが◯◯さん!アツいっす!」みたいな感想も少なくないので、そういうのが好まれる文化圏もあるんだなー、と。この辺は、完全に好みの違いだと思います。

 

表現における進化や成熟は、ひとつのスタイル(文体)やレトリックで測れるようなものではない。「多様な表現の可能性」のなかから、さまざまな表現を選び取れる〈幅〉や〈奥行〉の問題なのだ。

 

 文章において何より大切なのは、「自分が何を思って、何を書きたいのか」。もしくは「何を、誰に、どのように伝えたいのか」といった、根っこの“感情”の部分だと言える。少なからず「ことば」には感情が宿るものだとすれば、それを「どうやって表現するか」に全てはかかってくるのではないかしら。

 

 そのため、加えて言えば、「文章力」や「語彙力」などは二の次でも良いんじゃないかとも思った。他者の作った「テンプレート」や「型」に最初から頼ってしまっては、下手に《ゆがみ》を最適化し、陳腐なものにしてしまうケースもあるのではないかと。

 もちろん、「型」を利用することで表現の幅を広げることにつながるのも確かでしょう。基本となる“書き方”がわからなければ、参考にするのも一手だと思う。でもまずは、自由にあーだこーだと書き連ねつつ、自分の「感情の描き方」をあれこれ試行錯誤してみるのもおもしろいんじゃないかしら。

 

 

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*1:「bot」の存在などもありますが。

*2:語弊あり。

*3:「その話題を選択し文章化している」という時点で恣意性は働いているものの。