ぐるりみち。

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「死ね」「死にたい」〜軽い気持ちで発した言葉が及ぼす影響

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死にたいとは - ニコニコ大百科

 ヒトの発する「ことば」はインターネットの登場によって容易に記録されるようになり、またユーザー自らも積極的に発信・記録するようになった。

 誰もが気軽に、画面越しに見知らぬ人と匿名で交流できるようになった昨今。無遠慮に投げかけられた「ことば」が時に問題となり、他者をむやみに傷つけたり、発した人自身が非難の嵐に巻き込まれることもある。

 画面越しに存在する “個人” を想像できないのか、誰とも知らぬ “他人” だからどうでもいいと考えているのか、はたまた自分の独り言を聞いている人などいないと思いこんでいるのか。容易な「ことば」の送受信を可能にしたインターネットでは、たびたび炎上や誹謗中傷が問題視されている。

 

軽くも重い、「死ね」という言葉

 「死ね」という言葉は現代に蔓延る代表的な呪詛であり、個人的には使うべきでないと思っている。カーチャンからそう繰り返し言われて育ったので。友達を呼んでテレビに向かってボンバーマンをプレイしているときですら、「 “死ね” はやめてほしい」と諭されていた記憶。代わりになんて言っていたのかは思い出せない。……爆ぜろ?

 とは言え、そこは語彙の乏しい小中学生。教室でも廊下でも校庭でも通学路でも、「死ね」という言葉は当たり前に飛び交っていた。インターネットに接続詞ても、罵倒表現としての「氏ね」を見るのも普通だったし、常に身近に存在していた表現であることは間違いない。そういう意味では、日常的な「軽い」言葉だとも言える。

 

 しかし、自分が言う側・言われる側ともなると、話は別だ。大声で「死ね!」と突きつけられようが、バカにしたような口調で「死〜ね☆」とかけられようが、嫌に感じることには変わりない。心がざわつき、頭に血がのぼり、訳がわからなくなって泣きたくなる。

 何かの拍子で、自分が「死ね」と言ってしまった場合も同様だ。発した途端に自己嫌悪に陥り、ざわざわむかむか、激しい感情の奔流が押し寄せたあと、喪失感に打ちひしがれる。一口に言えば、「やっちまった感」。言おうが言われようが、しばらくは冷静ではいられない、そんな言葉。

 それゆえに、たとえ当たり前に使われている軽い言葉だとしても、自分にとっては「重い」表現としてのしかかってくるものだし、どれだけブチ切れようと使ってはいけない、禁句だとも感じている。親愛をこめて「死ね☆」が挨拶としてまかり通っている文化圏があることも知ってはいるけれど……やっぱり、違和感は拭い切れない。その点、「ホビロン」は良いバランス、なのかしら……?*1

 

言うは易し、故に感情の込められた「死にたい」

 一方、他人に向けた「死ね」ではなく、自分に向けた「死にたい」は、また違ったざわつきを自分にもたらす表現だ。

 amazarashiの「穴を掘っている」という楽曲のMVがある。樹海に置かれた複数のプリンターが、ひたすら「死にたい」という言葉を含むツイートをプリントしていく、ただそれだけの映像。にも関わらず、何か迫るものがある。

 この、ともすれば「メンヘラの定型表現」として看過されてしまいがちな「死にたい」も、それを発する人それぞれにまったく異なる、判別不能の感情がなみなみと込められたフレーズなんじゃないかと思う。冗談半分だったり、ネタだったり、単に「失敗した」程度のものだったり。

 その性質や感情の方向性はさまざまで、「構ってちゃん」と片付けてしまえるほど単純化できるものではない。「失敗」にも大小さまざまあるし、それこそ「穴があったら入りたい」という羞恥心や、行き場を失った感情の発露としてポロッと出てきたものかもしれない。そこに込められた想いは周囲に慮ることは難しく、本人すら整理できていないとしても不思議ではないように思う。

 

時に他人を侵食し、時に自分を焼きつくす「ことば」

 ぶっちゃけ、ウェブ上に溢れる「死ね」も「死にたい」も、前後の文脈を見ればその大半が冗談・ネタであると周知されているようにも思う。当然のように使っても何ら問題はなく、別に言葉狩りのようなことをするつもりはない。

 けれど、悪意があろうとなかろうと、独り言だろうとなかろうと、ひとたび発せられた「ことば」は力を持つ。良くも悪くも。声に出して宣言することで前向きに事を進められるかもしれないが、考えなしに発した言葉が他人を傷つけることだって普通にある。

 

 例えば「いじめ」に関して、「加害者はいじめていたことを忘れても、被害者はずっと忘れない」とはよく耳にする指摘だ。いじめを受ける対象は何かをきっかけに別の人に変わることもあるため、加害者側は誰に何を言ったかなんていちいち覚えていない。

 しかし、いじめられた側にとっては、それが一生に渡って残る傷として残り、忘れられなくなるケースが往々にしてある。いじめに限らず、「発話者にとっては何でもなくても、自分にとっては痛い一言」のようなものは、誰にだって少なからずあるのではないだろうか。

 

 ウェブ上の誹謗中傷も同様だ。どこかの誰かの問題発言や、物議を醸す行為がやり玉に挙げられ、その件とは無関係であるはずの人も便乗して責め立てるようなケース。その対象は「流行」のように移り変わり消費されるため、数ヶ月も経てば「そんなこともあったねー」程度になっていてもおかしくはない。

 マスメディアも巻き込んで話題になった事件と言えば、いわゆる「スマイリーキクチ中傷被害事件」*2が真っ先に思い浮かぶ。

 この記事では、加害者が他人のせいにしたり、自分も被害者だと主張したりする無責任さが指摘されている。見方を変えれば、彼らは自分の「ことば」に責任を負うつもりがまったくなく、「ことば」の価値もその程度のものだと認識しているように感じた。

 普段から当たり前に発している「ことば」は軽いようでいて、意外と重い。むしろ定量化できるものではなく、発話者と受け手、時と場合によってもたらされる影響力も変わってくると言えるのではないだろうか。それを想像できない人は誰だって容易に失言してしまってもおかしくないし、場合によってはそれが自らを焼きつくす業火ともなりかねない。炎上こわい。

 

 一般的に、「ネットリテラシー」という単語は「情報選別能力」や「危機回避能力」のこととして説明される印象があるけれど、そこには広い意味での「想像力」も含まれているんじゃないかと思う。自分の発言や行動がもたらす影響、周囲からの受け取られ方、どのような反応が返ってくるか。

 僕自身、物好きにもブログなんて場所でシコシコと好き勝手に書き連ねている人間ではありますが、無意識にどこかで自分のラインを定めているような気はする。「これ以上はあかんやろ」という部分を想像して、自分なりに抑制をかけているイメージ。

 

 「ことば」の持つ魔力を「言霊」*3として前向きに捉えるのは悪くないし、言葉・文章が好きな自分としては、なるべく出せるものは外に出したいな、とも思う。けれど、慢心による「言挙げ」*4は、我が身を刈り取りかねないものでもある。

 なにを、どのような「ことば」でもって発信するか。あるいは、発信しないか。だらだらとTwitterを使っていると何でも垂れ流してしまいそうになるので、その辺りの意識を忘れないようにしたい。

 

 

 

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