「0か1か」で考えるのは悪いこと?ネットでは「白黒」で断定しがち


 

 こちらの記事を読みました。気になったのは、以下の点。

 

以前、ある大学でメディアリテラシーについて教えたときに、「ニュース報道が信じられず、ネットにしか真実がないと思っている」と話す学生がいました。今の子は、そんなふうに「1 or 0」な感じなんですよ。ネットでデマを流したやつがたたかれますけど、僕はデマとデマじゃないものの中間に真実があるんじゃないかと思っています。でも、そういう考え方ではなく、つねに「1か0」を求める子が増えているような気がします。

 

 どうだろう。少なくとも自分の周囲に関して言えば、そういう人はいなかった気がする。ここで指摘されているように、いわゆる「まとめサイト」的なものを盲目的に信じきっている人もいたけれど、あくまで少数派。むしろ「0か1か」で決められない人の方が多かった印象。私です。

 優柔不断にふらふらと学生時代を過ごし、多数派に乗っかることしかできなかった自分からすれば、「0か1か」を決められる人はすごいと思う。ひとつに絞り、それを信じて自我を通し続けることは並大抵のものじゃない……はず。だけど、きっとこの記事で言いたいのはそういうことではないのでしょう。

 

ネットでは、何でも白黒付けたがる?

 “ネットでは”なんて言うと、「主語がデカい」というツッコミが入るかもしれないけれど、実際に大きいと思うのですよ。ネットでは。「声」が。どうしても、はっきりとした物言いや、やたらと強い言葉を並べ立てる人の言葉に注目が集まりがち。

  もちろんそれは、ネットに限った話でもなく。いつの世も、どんな場所でも、自然と「声」の大きな、強い人に注目が集まり、そこを中心として周囲に影響が及んでいく。センセーショナルな発現には自然と耳が向いてしまうし、論理や知識がなくとも説得力を発揮する強い「声」は、良くも悪くも社会の変化を促進してきたのでしょう。

 

 現実で発せられる「声」と、ネットで読める「文章」の違いには、ひとつ、「情報量の違い」があると思う。抑揚やその人の感情、さらに面と向かってであれば、表情や身振り手振りをもって主張のできる現実の「声」は、情報量という観点では圧倒的なのではないかしら。

 一方、ネットで主に意見発信の場として使われるのは、ニュースサイトやブログといった媒体、つまり「文字」を媒介して主張が伝えられる。前述のような現実の「声」とは異なり、その情報量は限られてしまうし、さらには人によって解釈が異なったり、「誤読」を誘発するようなリスクも潜んでいる、不確かなものだ。

 

 しかし、「文字」という情報量の限られた媒体を介することによって、実は逆に主張が「伝わりやすい」という側面もあるんじゃないだろうか。抑揚や感情といった要素は、他人を説得するには効果的なものだけれど、論理性・合理性などの側面から見た場合、冷静な判断を鈍らせる不要な情報にもなりかねない。

 討論番組なんかを見ていても、議論がヒートアップした結果、互いを嘲笑したり揚げ足取りに専念したりといった、無為な方向に展開することは珍しくありません。もちろん、“あえて”そういう方向に持っていったり、そういう立ち回りが売りの人だったり、“演じている”こともあるのでしょうが。

 

 そう考えると、情報量の限られた「文字」によるネット上の議論は、むしろ「白黒つけやすい」環境と言えるのかもしれませぬ。無論、双方納得したうえで結論に至るようなケースはごく稀にも思いますが、第三者視点から見て、どちらに論理性・合理性があるかといった判断はしやすい。

 発話者のやり取りが誰でも読める形で可視化され、しかもそれが記録として残るのは大きな利点と言えるのではないかしら。ただし、まとめサイトや悪質バイラルメディアの煽りや偏向に見られるように、「編集」や「解釈」の余地が存在するのは、意識しておきたいところ。

 

二者択一は思考停止?

 他方では、「0か1か」で考えることや、ある物事についてこれだ!と「決めつけ」ることを好まない人も、少なからず存在します。時と場合、判断する対象・物事などによっても異なるだろうけれど、「決める」ことは、言い換えれば「思考停止」の状態に自らを置くこととも考えられる。

 

 

 単なる言葉遊びに過ぎませんが、「決める」ことと、「意見を表明する」こと、「思考停止する」ことは、ほぼ同義であるとも言える。複数の選択肢を考慮し、自分の意見を検討し、それを「確定」させたうえで、周囲に発信する。

 「主張」とは、そこで発信する意見以外の選択肢を“その場では”放棄した格好、それ以外に関しては(一時的に)“考えるのをやめた”状態のことを指す……と言っても、あながち間違いではないのではないかしら。実際の現場では、自らの主張を展開したうえで、他の人の主張・意見も聞き入れつつ、総合的に判断するような柔軟性が求められることになると思います。

 

 しかし、中にはそのような「現段階での考え」を表明することを嫌う、苦手とするような人もいる。ひとたび意見を表に出したら、周囲から見たその人の立ち位置が決定されてしまうから。撤回しづらくなるから。どちらの意見にも納得できるから、中立でいたい。――少なくとも自分のまわりには、そのようなスタンスを持っている人が多かったような印象が強い。自分も含めて。

 

 議論の視点で見れば、ぶっちゃけ迷惑な存在だと思います。あっちへふらふら、こっちへふらふら、自分の考えを外に出さず、中立的な立ち位置で俯瞰する傍観者。声に出さなければ、議論は展開しないし。せめて中庸から問題の整理や、全体像を把握したうえでの舵取りでもやっていれば良いのだろうけれど、酷い場合だと外野でせせら笑っているだけ……って、これまたネットでよく見る構図のような。

 むしろ、ネットならば「現段階での考え」を表明しやすい環境が整っているようにも見える。情報の流動性が尋常じゃないほどに高く、不特定多数の意見が消費されては流されていく。そのようなところは、誰もが気軽に「わたしは!いま!こうかんがえています!」を声に出しやすい場所とも言えるんじゃないかろうか。「ブログ」だって、そんなもんでしょ?

 

「0と1」を考えたうえで「好き」「嫌い」を表明する

 何の話でしたっけ。「0か1か」ですよね、はい。

 

 冒頭の津田さんが話している、“つねに「1か0」を求める子が増えているような気がする”というのは、「傍観者視点に慣れている学生が多い」ということなんじゃないかしら。僕の勝手な想像ですが。

 “ニュース報道が信じられず、ネットにしか真実がないと思っている”人というのは、これまで「受け身」の情報消費をしてきた層に多いんじゃないかと思うのですよ。自分で調べず、ソースを確認せず、流れてくる大量の情報を無作為かつ無批判に受け入れてきた人たち。

 別にそれがけしからんとか、悪いとかいうわけじゃなく――そもそも、僕だってその層に当てはまるでしょうし――、膨大な情報の奔流に身を置いて育ってくれば、自然とそうなってしまうのも仕方がないのかな、と。同時に不容易な「炎上」といったネットの怖さも知っているため、あまり「発信」側にまわる機会もなかったのではないかしら。

 

 そこで、「0か1か」ではなく、「0と1」を考えたうえで、その内容を比較検討し、自分の主張を持とうとするのなら、やはり「発信」の経験を養うというのはひとつの手なんじゃないかと思います。要するに、「ブログやろうぜ!!」ってハナシ。

 まとまったひとつの文章として考えをまとめようとすれば、自然と物事を調べる癖がつくはずだし、自分の思考過程も整理しやすくなる。そうすれば、複数の選択肢を吟味したうえで、「僕はこれがいい!」を積極的に表明できるようになる。

 

 ――なんてことを書いているにも関わらず、この記事は既に前半と話題がズレているのですが、まあそんなぐだぐだな内容だって良いじゃない、と。「現段階での考え」を「好き」に示すことができるのが、「個人の日記」的なブログの魅力だと思うので。そして、批判は甘んじて受けるのです。ツッコまれることで、自分の考えの「隙」や「未熟さ」を知ることができる。すばら。

 

 だから……ねっ?ブログ、しよっ?

 

 

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