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「情報社会」と日本のネットワークの伝統

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photo by Tonymadrid Photography

 現代は、情報社会である。それはインターネットの発達と普及に端を発するものであり、これから先も世界中にますます拡大していくだろう。情報社会は、既存の社会関係や人間関係といったネットワークと複雑に絡み合い、それらネットワークが変化したり、新たなものが生まれたり、ということも考えられる。そして、情報社会の拡大と共に、新たな問題も現れてくるであろうことは明らかだ。

 では、既存のものも含めて、現れてくる問題にどう対処していけばいいのか、拡大する情報社会の中で、ネットワークはどうあるべきなのか。これらの事項について、まとめてみようと思う。

 

「情報社会」とは

 まず、「情報社会」とは何なのか、その定義を確認しておきたい。百科事典によれば、以下のような説明がなされている。

物財、すなわち、物や、資産、資本などの財力にかわって、知識や情報が優位となる社会で、1970年代後半から80年代にかけて、アメリカ、日本、旧西ドイツ、イギリスなどの先進工業諸国は相次いで情報化社会に移行した

 また、「情報」には大きく分けてふたつの考え方があるとされる。

 

 ひとつは、主観的な捉え方によるものだ。これは、人間の意思決定との関係で情報を捉えるものであり、「ある事柄の知らせがもたらされて、その知らせが人間の意思決定に何らかの影響を与えたとき、初めてその知らせが情報となる」というものだ。

 もうひとつは、客観的な捉え方によるものだ。これは、通信技術の発展と関連し浮上してきたものであり、特に、無線通信技術が放送事業という形で経済社会のなかにとり込まれ、マスコミュニケーションとして発展したことが、この考え方を進めることになった。

 

 前者の考え方は情報を「人間」中心に捉えるものであり、後者は「技術」中心に捉える考え方である。捉え方は違うが、両者は情報社会において親密に関わっているようだ。

 

 どういうことかと言うと、まず情報が形成されるには、「問題意識」と「データ」が結びつくことが必要になる。「問題意識」が人間から生まれるものであることは言うまでもない。そして、「データ」は通信技術などの発展により、多面的かつ大量に収集することができるようになったものだ。問題となるのは、データが増えていった結果、それらを受けとめる問題意識が充分に人間の中にあるかどうかという点になってくる。

 つまり、情報社会においては、客観的に認識された数多くの情報の中から、自分が必要とする、自分の得になる情報を見分け、選んでいくことが重要になってくると言えるだろう。さらに前述の定義にもあったとおり、物質的なものよりも、どれだけ質のよい確実な情報を持っていたかによって、自分の立ち位置が変わってくるという特徴もある。

 

「ネットワーク」とは

 次に、「ネットワーク」とはどのようなものなのだろうか。ここで取り上げる「社会的ネットワーク」を百科事典で調べてみると、以下のように説明されている。

価値、構想、提案、金銭的やりとり、友人、親類、嫌悪、取引、ウェブリンク、性的関係、疾病の伝染(疫学)、航空路といった1つ以上の関係により結びつけられた(個人や組織を指す)ノードからなる、社会的な構造である

 

 つまり、個々人である複数の「点」を結びつける役割を果たしている「線」こそが、ネットワークであると言い換えられる。これは、コミュニティを形成し社会的な生活を営んでいる人間には不可欠なものであり、全ての人間関係や社会関係はネットワークであるとも言えるだろう。とは言え、そのネットワークの構成員、目的、共通点などのな要因によってその役割や内容は異なるため、現在も各分野での研究が続けられているようだ。

 

「情報社会」と「ネットワーク」

 「情報社会」、そして「ネットワーク」。このふたつの単語を並べたときに、真っ先に想像されるのがインターネット、すなわち、コンピューターネットワークだ。パソコン通信に始まり、インターネット、PHS、携帯電話と広まったそれは、もはや現代社会の生活において必要不可欠なものとなっている。一口にコンピューターネットワークと言っても様々あるが、ここでは、最も私たちにとって日常的であろうインターネットに焦点を当てて考えていこうと思う。

 情報収集や情報伝達のツールとして一般に広く使われているインターネットだが、今日、それは多くの問題も内包している。既存の問題とは。そして、これから先に現れてくるだろう問題には、どのようなものがあるのだろうか。

 

インターネットの外的問題と解決策

 まずはインターネットと、それを形成するコンピューターのシステムといった、外的要因による問題点を挙げてみよう。

 

 知っての通り、コンピューターは高性能であるが、それ故に脆い。身近な例としては、停電によって使用不能になる、火災などの回線障害で接続ができなくなる、外部からのハッキングを受ける、ウイルスに感染するなど、いとも簡単に使えない状況に陥ってしまうものだ。それだけではない。ウイルスも含め、セキュリティが万全でないと、プログラムの改竄が行われたり、個人情報が漏れてしまったり、データを悪用されてしまう恐れもある。

 このような外的な問題点というのは、改善は簡単であるが、すぐにまた同じようなことを繰り返しかねない。停電や回線の問題については、長時間使用可能なバッテリーを搭載したり、予備の回線を増やすなどして対策ができるが、外部からの人的攻撃は抜本的な対策が難しい。新たなセキュリティを構築することで、一時的には効果が望めるが、すぐにまた破られて攻撃を受けてしまうと推測できるからだ。つまり、誰も手のつけることのできない万能なセキュリティシステムを作らない限り、このいたちごっこは永遠に続くことになると言える。

 

インターネットの内的問題と解決策

 近年、インターネットの使用で問題になり、メディアなどで大きく取り上げられているのがこちらだろう。インターネットと、それを使う一人の人間、または多数の人間の間に起こる問題。これは、ふたつに大別することができる。

 

 ひとつは、主にネット上での人間関係だ。一般的に、オンライン上でのコミュニケーションは文字のみを媒介としたものとなる。相手の容姿や表情、視線、声、身振り手振りなどの情報は全くわからないため、文字だけを見て、相手の考えや気持ちを判断することになる。

 そのため、自分の言いたいことが伝わらず、会話の齟齬が発生することがしばしばある。さらに、「相手がどこの誰である」ということもわからず、逆に「自分がどこの誰である」といった情報も示す必要がないため、その匿名性から、発言が攻撃的になりがちだ、ということもよく言われている。オフラインでは、誰かの目を気にして発言することが多く、従うべき集団規範のようなものが色濃く存在するが、オンラインではその効果が極端に薄まり、自分の思ったことを周囲の介入なしに発言する傾向が強い。このことはプラスに働くこともあるが、マイナスに働くことも多い。行き過ぎた自由というのは、人を攻撃的にするものなのだろう。

 

 もうひとつは、ネット上の情報と、それを受け取る人間との間に発生する問題だ。ネット上には、大量に、様々な種類の情報が溢れかえっているため、情報の受け取り方次第で、その情報の持つ意味合いなどが簡単に変わってしまう。

 例えば、特定の情報に支配されることになったり、誤った情報を正しいものと思ったり、不適切な情報を無批判に受け入れるといったことが起こってくる。また、情報を巧みに利用して、自分だけの経済的な利益のみを追求したり、法を犯さなければどのような使い方をしてもよいと考えて行動するような人も現れている。その結果、情報とその利用の正しいあり方が著しく歪められることになり、それが原因で人間としての主体性が喪失されるばかりでなく、社会秩序が崩壊する危険性までも指摘される事態となっている。つまり、その人の受け取り方、使い方次第で情報の価値は大きく変化し、その方法によっては人間に「考える」ことを放棄させかねない危険性を孕んでいる、ということだ。

 

 前者――ネット上での人間関係における問題は、メールなどの知り合い同士のコミュニケーションの場合、オフラインとオンラインの使い分けによって、ある程度は解決できるはずだ。オフラインでないと話せない話題、オンラインの方が話しやすい話題を見極め、うまく活用していくことが大切だと言える。

 また、お互いがお互いのことを全く知らない同士でのコミュニケーションについては、インターネットマナーを教育することによって、過剰な攻撃性は抑えることができると考える。加えて、文字のみのコミュニケーションという情報の少なさは、テレビ電話や音声チャットで補うという方法もある。

 

 後者の問題についても、インターネット教育によって効果が望めるのではないか、と思う。もちろん、現在の中学や高校で行われている情報の授業では意味がない。多くの小学生もネットを利用している現代では、小学校からの徹底した学習課程が必要だ。幼い頃からしっかりと教育を受けさせれば、現在ほど、情報に踊らされるような人は減るのではないだろうか。

 

今日、現れつつある問題

 2000年前後から口にされ始めた問題として、デジタル・ディバイド――情報格差が、まず挙げられる。国家間の経済力や通信技術の差異によってもたらされる情報格差もあるが、最近話に出るのは、個人の持つ情報量の違いだ。

 若者を中心に広がりつつある、mixiなどのソーシャル・ネットワーキング・サービスや、ブログ、Twitterといったコミュニケーションツールの増加によって、オンラインでの交流は格段に増えた。大多数の人がこれらを活用していることによって、登録していない人たちとの全般的な情報量の違いが浮き彫りになっている。これによって、「SNSをやっているのは当たり前」という風潮が生まれつつあり、より多くの人をインターネットに固執させているという現状がある。

 

 さらに、近年では携帯電話やノートパソコンの発達によって、インターネットの持ち運びが可能になった。時刻表検索や目的地探索など、便利な面ばかり取り上げられているが、一方でこれは新たな危険性を孕んでいるとも言える。

 それが、いわゆる携帯中毒者だ。街中を歩きながら、食事をしながら、友達と話しながら、どんな時においても携帯を片手に行動している様子は、異常と感じずにはいられない。一昔前に、部屋でずっとパソコンやゲームをしている引きこもりが話題になったが、外に出てもオンラインの世界に没頭しているのでは、引きこもりと何ら変わりないのではないだろうか。外出しながらに、自分の世界に没頭する。まるで、「アウトドア引きこもり」とでも呼べそうな人たちが、あまりにも多すぎる。

 

情報社会と日本のネットワークの伝統

 ここまで、インターネット時代における情報社会を見ると、それは徹底的に自由であり、それ故に多くの問題点を抱えているとも言えるだろう。なぜならば、それはもともとアメリカという自由主義国家の産物であり、過去の日本には存在しなかったようなものだからだ。

 

 では、そのような「徹底的な自由」の下で、どのように問題を解決していくか。そのためには、個人個人が自らの確固たる意思と、従うべきひとつの規範を持つ必要がある。

 過去の事例を見ると、一般的には、人々をまとめ、従わせるものは国家であったり、宗教であることが多い。実際、欧州の国の大半は、宗教による統一が多いと言えるだろう。ところが日本では、一概にそれだけとは言えない。イエ原則やムラ原則の例がしばしば出されるように、日本において従うべき原則は、自分たち自身の中にある。それは遥か昔から受け継がれる神道のような宗教的なものであったり、共通意識を持つ者たちのネットワークの同一の目標のような国家的なものであったりした。そこにはしっかりと統一された意思があり、それによってネットワークは安定して機能していたと言えるだろう。

 

 しかし、現在のインターネットを見ると、そのようなものはまるで感じられない。ある程度の定められた規則は存在するが、ほぼ有名無実も同然で、各々のマナーに任せているのが現状だ。目的もなく、娯楽のために狂気的に情報を集め、その価値も簡単に決め付けてしまう。このままでは、インターネットは無法地帯も同然になってしまうだろう。

 だからこそ、インターネットの使用者全員が持つべきとも言える共通意識が必要になってくる。それは規則でもいいし、スローガンのようなものでもいい。誰もがそれを念頭に置きながらインターネットを使用できるような、そんな意識が不可欠だ。

 加えて、一人一人が持つ自分自身の意識も必要になってくる。これは、全体で共有するべき意識とは別のものだ。ただ情報を受け入れ、流されるのではなく、自らの持つ価値観と考えに従って、情報を取捨選択し、自分なりの正しい価値を下せるような、一貫したイメージが必要だ。武力集団であると同時に、農耕も行っていた武士のように、外と内、ふたつの意識が重要になってくる。

 

 このようにして、各々の価値観の下に情報を扱い、それを自らの内で試行錯誤した後に、ネットワークに新たに発信することによって、個々の情報の質が上がり、そのネットワークはうまく循環し、発達していくことになるだろう。そしてそれをさらに上の段階のネットワークに持っていき、最後には日本社会、さらに言えば世界という巨大なネットワークにまで伝えることで、その過程で最終的に生まれた「なにか」の下に、社会は一貫したまとまりを持つことになるのではないだろうか。

 

 「点」である個々人が、ネットワークという「線」によって結ばれることによって、社会はひとつの完成系に辿り着くのだと思う。つまり結局は、全体を決定付けるのは個々人の強い意思であり、その点がひとつ欠けるだけでもネットワークは完成しない。誰もが弾かれることのない、統一された意思を編み出し、ネットワークを作り上げることができれば、社会はどこまでも良いものになれるのではないだろうか。

 

参考

 

セルフツッコミ

 以上、HDDを整理していたらサルベージされた、大学2年次のレポートでございました。確か、5、6年前、ギリギリ00年代後半に書いたものだったと思うので、まだ「mixi」の文字が眩しいですね。その2年後は、扱いに困っている感じだけど。

 とりあえず、論文口調なので妙に偉そうなのが気になる。それ、講義で聞いた話と、調べて見つけた情報をつないだだけじゃないですかー、と。もちろん、そういうアウトプットを目的とした「課題」でもあったのでしょうが。

 

 “携帯中毒”という字が懐かしめるくらいには、スマホが普及した現在。そんな僕は、どこでも画面を覗きこんでスキャナーを起動する、Ingressエージェント。ち、ちがうし。世界を守るためのレジスタンス活動だし。

 あと、“アウトドア引きこもり”は、ゲーム『.hack//G.U.』で社会問題として取り上げられていたものですね。あれは2017年の話だったけど、いつでもどこでもスマホゲーム、といった街中の様子を見れば、あながち間違っていないのかも。ってか、何しれっとレポートにゲームネタ仕込ませてるんだ、こいつ。

 “ネット住民全員の共通意識”なんてのは夢物語っすね。ネットが「仮想世界」というよりは「リアルの拡張」となった現代においては、全員が同じ目的でルールを守ってそれを使うなんてことはあり得ない。誰しもが同じ“ルール”を共有できるなら、それこそ世界はとっくのとうに平和になっているはずだべ。

 

 小中学校の情報教育が今どうなっているのかはわからないけれど、表面的な「使い方」――ネットの構造、SNS登録・サイト作成、ざっくりしたマナーは教えることができても、リテラシー的な「使い方」を授業で教えるのは無理ゲーなんじゃないかしら。

 使っていくうちに他者との距離感や、匿名の持つ性質や、信用できる・できないサイトなどを知っていくのであって、体系的な知識として限られた時間で学ばせるのは難しすぎる。でも、覚える前に失敗&炎上……なんてことになりがちな今は、どうしようもないような気もする。

 

 個人的には、00年代前半くらいのネットの雰囲気を持った仮想空間を別に作って、そこで学んでいくとかどうだろう?とも思うけれど、それは当時の「ネット」を美化しすぎかしら。「半年ROMる」から始めたい。

 あと、このレポート、結局何が言いたいのかわかりませんね。特定の単語をトピックとして何文字書け、という指定だったのかな。

 

 

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