ぐるりみち。

日々日々、めぐって、遠まわり。

自分にとって「四国」は架空の存在だった

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UDONは実在していた。

 大学4年生の冬。就職先が決まった僕は、ふと「四国」に行ってみようと考えた。それまで、転勤族として複数の地域で暮らしたことはあったけれど、いまだ一度たりとも訪れたことのない土地。「四国」とは、どのようなところなのだろう。

 

外部から得た“又聞き”の知識と、ステレオタイプ

 愛媛はみかん。高知は坂本龍馬。徳島は阿波踊り。香川はうどん。漠然とした知識、一般常識としての各県の存在は知っていても、それが本当なのかは実際のところはわからない。それらの知識はすべて、学校の先生やテレビ、あるいは本やインターネットなど、他人から知り得た情報に過ぎない。

 もちろん、大多数の日本人の間でそれが「常識」として共有されている以上は、それは紛れもない真実なのでしょう。実際、「香川が実家だよ!」という友人も身近にいたし、彼からもたらされる情報は圧倒的に「うどん」だった。うどんしかなかった。うどんうどんしていた。教科書やネットに書かれた文字列ではなく、生の声として彼が語る「うどん」は、「香川=うどん」というそれまでのイメージを補強するものだった。

 

 しかし言い換えれば、僕にとっての「香川」が意味するものはそれだけ。「うどん」でしかない。居住歴の長い埼玉県のイメージ――ベッドタウンや国道沿いの寿司チェーン、大宮の都会っぷりに謎のコンプレックス、ださいたま等々――といった具体性を伴ったものではなく、「香川」は「うどん」であり、うどん以外の何物でもなかった。……ということは、僕にとっての「香川」という言葉は、もはや「うどん」と同等の意味しか持ち得ない、定義されないのではないかしら。

 そう考えて、途端に申し訳なくなった。それではいけない。香川県の皆様方と顔を合わせて話すことができない。だって、「うどん」なんだもの。うどんしか知らないんだもの。「あー!香川出身なんですね!うどんなんですね!」なんていうバカの一つ覚えの会話しかできないんだもの。それではいけない。僕は「うどん」以外の「香川」を知らなければいけない……そう考え、奮起した僕は、人生初の四国上陸を試みたのであった。嘘だけど。

 

知っているけれど知らないもの、透明な存在に色を付ける

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何の面白みもない決めポーズ。

 そんなこんなで、広島県は尾道市からレンタサイクルでしまなみ海道を渡り、愛媛県今治市に初めて訪れたのが数年前。その後、徳島、香川と回って「四国」が好きになり、この数年間で何度か訪れた。そうすることで、ようやっとそれら4つの県が日本国内に存在していることを、この身をもって実感することができた。個人的には、言葉にできる知識云々よりも、その場に行くことで感じられる「空気感」的なものの方が大切だと思うのだけれど……どなたかうまく説明してください。お願いします!(人任せ)

 実際に香川県を訪れて得られた知識・経験と言えば、それまで蕎麦派だった僕の嗜好をうどん派に転換させたことと、「金刀比羅宮の石段が超たまらんです!」という石段好きの自分をハァハァさせてくれた感動くらいのものなのですが。それでも、この20年間で知らなかった、異世界としか感じなかった「香川」あるいは「四国」という存在が、一気に身近になったであろうことは間違いない。

 

 「四国」に限らず、このような「異世界」はそこら中に存在する。インターネットが普及した現代においては、Google先生に頼ることで、個人がまるで何でも知ることのできる環境が整っていると言えるかもしれない。けれど、そこで知ることのできる「知識」とはあくまで表面的なもの、「そういうものがあるらしい」という他者からの情報であり、自分にとっては「知っているけれど知らないもの」でしかない。

 この理屈で言えば、僕の過ごしているこの世界は主に「東京」、広く見積もっても「関東」で完結してしまっている。北海道や東海地方で暮らした経験、修学旅行で訪れた東北・京都などは体験として記憶にあっても、それ以外はさっぱりだ。この数年で「四国」は身近になったけれど、そのお隣さん、「九州」に関しては、これまた学生時代に青春18きっぷの旅途中で一晩だけ滞在した北九州市のみ。「沖縄」なんて、もはや外国レベルでござる。

 「外国」と言えば、日本から出たことがない自分にとっては、まさにそれこそ異世界、というかファンタジーだ。ゲームやマンガの中で語られる異世界だ。ザナルカンドだ。ハルケギニアだ。もしかすると、もう世界には日本しか残っていないのかもしれない。バーテックスとかいう敵に攻め込まれてるのかもしれない。実際に外国の方と話した経験はあるので、「アメリカは本当にあったんだ!」と知識を補強することはできているけれど。

 

 身近な「異世界」と言えば、テレビやパソコンの画面を覗きこめばいくらでも知ることができる。国内で若者が爪楊枝を片手に闊歩していようが、どこぞの国で戦争があろうが、僕には知ったことじゃない。ファンタジーだ。「そういうことがあったらしい」と知ることはできても、それ以上は何もない。自分の住む同じ世界で起こっていることだとは実感できない。実際に見たわけでもその場に居合わせたのでもない限りは、「想像」によってしかその世界を身近に感じることができない。

 事実、それは自分を含む多くの人にとって、「自分の住む同じ世界で起こっていること」ではないのでしょう。日常生活を送るに当たっての「自分の世界」とは、主に自分と周囲の人間関係、その生活圏に限られてしまう。ひとつの国や世界、地球規模で物事を考えるなんてそんな簡単にはできないし、そこで起きている多くの事象は、自分の人生とは無関係のものだ。何ら自分には影響がない。――だからこそ、知らぬ存ぜぬを決めつけて、雑に扱うことができる。

 

 けれど、本当にそれは「まったく影響がない」ものなのかしら。そのように決めつけているだけなんじゃないの?もしかすると、知り合いの知り合いくらいには関係者がいてもおかしくないし、そこから自分のところにも影響が及ぶ可能性はゼロではない。次の瞬間には、自分がその当事者になっているかもしれない。

 ……と想像してしまうと、ぶっちゃけ何でも起こり得るように思えてきてしまい、身動きがとれなくなってしまうのだけれど。それでも、ある事象に関してどのようなことが起こっているのか、どのような影響が想定されるのかといった「想像力」を、ある程度は誰しもが持っていてもいいのではないかと、ふと思ったのです。ちょっと考えればわかるはずのことを、知らぬ存ぜぬでスルーしてしまってはいないか。雑に扱ってはいないか。検討してみるだけでも、普段の生活の見方が変わってくるのではないかしら。

 

 もちろん、日々の生活に忙殺されてそれができない人も少なくないのだと思う。自分に余裕がなければ、他を気にしている余裕なんてない。「想像」する暇なんてないし、それを実際に「経験」しようと行動するなんてハードルが高過ぎる。けれども、それができる人間とできない人間とでは、埋められないほどのギャップがあるようにも感じる。だからこそ、時に「想像力の欠如」なんて言葉も出てくるのではないかしら。僕は大人になってから、「あ、やっぱりぼくはアホだったんだ」とようやく身をもって思い知ることのできた人間なので、偉そうなことは言えませんが。

 けれど、生きていればどこかの何かのタイミングで、そのような「知っているけれど知らないもの」を知る必要に迫られることもあるんじゃないかと思う。「異世界」が「日常」になる瞬間。その瞬間にあたふたしないようにするためにも、目に見えるけれど見えない「ファンタジー」が、どのような存在なのかを「想像」する行為は大切になってくるのではないでしょうか。僕らは知っていることしか知らないし、見えないモノを見ようとしたって、見えるモノには限度がある。それを補うための、「想像」。

 

 言うなればそれは、これまで漠然と“知っているだけ”で「透明」だった存在に、「色」を付けるような作業。自分なりに調べて、話を聞くだけでもある程度は薄い色をつけることができるし、実際にその場に行ったり、経験したりすることによって、その感じたままの体験を彩色することもできる。もちろん、中には「やってはいけない」もの、もしくはあえて「知らない方がいい」ものもあるのだろうけれど。その辺は、自己判断で。

 ブログなんてものを書いていると、なんでもかんでも“知った顔”をしてツッコみたくなることもある。けれど、知らないことを好き勝手に語るのは、“知っている”人からすれば滑稽に映るかもしれないし、そこから発生する悪影響を懸念して叱責されることもあるかもしれない。だからこそネットでは、いや、ネットに限らず、「何を話すか」と「何を知っているか」は重要になってくるのでしょう。当たり前っちゃ当たり前なのでしょうが、そのような「当たり前」を整理する意味で、「知らない」ことを言葉にするのには意味があると思うのです。そうすれば、“知っている”人が訂正してくださるので。

 

 人生、知らないことだらけ。一瞬にして「塗り絵」を完成させることなんてできないんだから、自分のペースで「透明」なものに「色」を付けていけばいいのではないかしら。真っ白な日本地図を、徐々に埋めていくように。最近は、四国がマイブームです。

 

 もしかして:Ingress

 

 

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