目に映る景色の変化と、“見えないモノを見ようとし”続ける僕ら


 

 読みました。僕の場合、それまで聞こえなかった音が聞こえるようになったのは、某音ゲームによるものだったけれど*1、同様の経験がある人も少なくないのではないかしら。

 

で、そのとき学んだのは、実は「楽しいバンド音楽の聞き方」ではなくて「知るということははやっぱり楽しいんだな」ということだった。

もう聞き慣れたはずの曲が新しく聴こえた時、自分は普段いろんなものを見逃してるんだなぁと改めて気づかされた。そのアルバムは歌詞を諳んじられるくらい聴き込んでいたのに。

 

 三森id:yuki3moriさんも書いているように、それまで聞こえなかった、“知らなかった”世界を再発見する体験はとても楽しい。もうウッキウキですよ。

 「知ってるのに、知らなかった!」という経験は、未知の世界を新たに1から学ぶのとはまた違った刺激があるもの。普段から「客観性」や「別視点」の重要性を説いている言説は少なくありませんが、実際にそれを意識するのは難しい。多くの場合は、何らかのきっかけによるものなのではないかしら。

 

 “見えないモノを見ようとす”るには、現在の自分にはない、新たな要素が必要となってくる。

 

選択肢を広げる「知識」と「経験」

 「客観性」だの「別視点」だの簡単に言いますが、自分一人でその力を養うのは非常に難しいと思う。ネットはそこら中が「他人の視点」で溢れかえっているので、忘れそうになるけれど。

 だって、“ぼく”は“あなた”になれないし、“だれか”の考えていることを正確に理解しようなんて不可能に近い。

 TwitterやFacebookのように、対面で出会ったばかりの人の詳細なプロフィールをワンクリックで知ることはできず(名刺が限界)、どのような人となり・関係性を持っているのかタイムラインを遡ることもできない(探偵にお任せ!)。

 

 そこで、様々な人と新しく関係を結び、互いに話し合うことで僕らは「他人の意見」を「別視点」として知ることができる。「あなたはどう考えてるの?」と問うて素直に答えてさえもらえれば、「別視点」を得ることは簡単だ(実際はいろいろと面倒そうだけど)。

 けれど、何でもかんでも人に聞くわけにもいかず、いざという時には自分一人で複数の可能性を考慮し判断する力も必要になってくる。その可能性=選択肢を広げるための「客観性」や「別視点」であり、それらを持っているに越したことはない。

 

 そんな「客観性」「別視点」は何によって養われるのかと言えば、一般的には「知識」や「経験」といったものが挙げられるのではないかしら。

 ある物事に関して複数の方法を知っていれば、ひとつがダメになっても他を用いることで対処できるし、過去の実績や体験を鑑みて物事の良し悪しを判断するのは、経験によるもの。だからこそ、“学歴重視”や“経験者優遇”という基準も存在するんじゃないかと。

 もちろん、何でもかんでも知っていれば、身体で覚えていれば良いというものでもないけれど。過去の経験がなくたって考えることはできるし、逆に知らないからこその楽しみ方だって認められても良いと思う。それだって、「選択肢」のひとつであることに変わりはございませぬ。

 

 

過去と現在の自分は別人、今と昔で見方は変わる

 冒頭の記事を読んでもうひとつ思い出したのが、その時々によって作品に対する印象、感想も異なってくるよなー、という点。「作品」とは広い意味での小説、映画、音楽などなど。

 例えば、自分にとって特別な曲のひとつに、ZONEの「secret base」があります。この曲って、聴いた時の印象が人によってかなり異なってくるんじゃないかな。

 

 

 当時の僕の場合は、「歌詞」に対する共感が圧倒的に大きかった。転勤族で育ち、転校を繰り返す中で一抹の寂しさも覚えていたので、そんな時に元気づけてくれた曲。文通を続けることができたのも、「また会えるかも」というモチベーションのおかげだったのかも。

 逆に、この曲の背景に関してはからっきし。同世代の友人と話をすると決まって、「あー!『キッズ・ウォー』の主題歌だったよねー!いいよねー!」という話が出てくるのだけれど、テレビっ子じゃなかった僕にとっては何のことやら。「ドラマらしい」ことしか分かりませぬ。

 

 で、あれから10年以上が経った現在のこの曲に対する印象と言えば、まさにその「転校が多かった小学校時代の思い出の曲」というイメージ。よく聴いていたな、勇気づけられていたな、いま聴いても良い曲だな。そんな感じ。色褪せませんねー。

 もしくは、2011年に放送されたアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のエンディングテーマとしてのイメージ。何の前情報もなく見ていた作品だったので、第1話のEDで流れたときの衝撃は尋常じゃなかった。あれは反則。

 

 

 「secret base」に限らず、「いま聞くと当時とは違って聴こえる」曲は多くあります。BUMP OF CHICKENの曲は割とそのままだけど、Mr.Childrenの楽曲群は結構変わった、みたいに。

 

今 僕のいる場所が 探してたのと違っても
間違いじゃない きっと答えは一つじゃない

Any/Mr.Children

 

 当時の自分が考えていた“今 僕のいる場所”と、現在の自分にとっての“今 僕のいる場所”は明確に違って当たり前。それゆえに、自然と曲から得られる感慨も変わっているのではないかと。

 もちろん歌謡曲に限らず、小説や映画でも同様でしょう。子供の頃には分からなかったけれど、いま見れば共感できる、泣ける作品は割とありそう。当時は「うわぁ……サトシぃ……」とドキドキしていた『ミュウツーの逆襲』も、今ならボロ泣きする。ってか、した。

 

「成長」という「変化」によって見えるモノ、見えなくなるモノ

「なんで成長するのだろう?」という疑問が出てきてしまったのだ。ここで気になったのは「成長」の中身ではなく、「成長する」こと自体の意味だ。いや、理屈は分かる。日々、成長して、昨日できなかったことが今日できてる!みたいなことを繰り返していけば、立派なエンジニアなり、ビジネスパーソンなりに近づける、というのは頭では理解できる。でもって、昇進もして、地位も高くなって、給料も上がって…ってなるのはなんとなく想像できる。でも、これから本当に人道的に間違ったことを言ってしまうんだけど、「どうせ死ぬのになんで成長するの?」ということがどうしても引っ掛かってしまう。

なぜ「成長」しないといけないのか分からない。いや、わかるけど…。 | shimotsu.jp

 

 過去と現在の違いは何によってもたらされたのかと言えば、そのひとつに「成長」という要素があると思う。身体的にデカくなって見える景色が変わったというのもそうだし、大学生あるいは会社員という「肩書き」を得ることで見えるようになった景色もある。

 「成長」と一口に言うと、時と場合によって多義的な解釈ができそうではあるけれど、いろいろ引っくるめてざっくりと言えば、単なる「変化」の一種でしかない。時間の流れの中で何かしらの刺激を受けて、自分にもたらされた価値観の変化。それを「成長」と言ってもいいのでは。

 

 これまでに出した言葉を使えば、「知識」や「経験」を経ることによって身についた「別視点」や「客観性」のこと。それを「成長」と言っても良さそう。

 日々の生活の中で得られた新しい学びや体験を吸収し、「こういう考えもあるんじゃね?」と提案することで選択肢・可能性を広げることに繋がるような。そう考えると、やはり「知識」と「経験」は紛れもなく重要なものであると言えるでしょう。

 

 ただ、そうして“見える”ようになったことで、他方では“見えなくなった”モノもあるんだろうな、と最近は思うようになりました。新しいモノに対するワクワク感とか、昔は楽しめたモノが楽しめなくなってしまったとか。

 ……って書くと、「おっさん臭い」と言われるのか、はたまた「まだ青臭い」と言われるのかしら。

 

見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ
明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった
"イマ"という ほうき星 君と二人追いかけていた

 

 BUMPの「天体観測」の歌詞の解釈は様々あるようだけど、ここで“見ようとす”る、“見えないモノ”の持つ意味合いも、人によって変わってくるように思う。

 青臭いガキンチョだった頃は輝かしい「未来」なんてものを思い描いていたかもしれないし、おっさんになった現在は楽しかった「過去」を思い返しているのかもしれない。でもどうあがいたって、見えるのは“イマ”その瞬間に瞬いている星だけなんですよ、っと。くせえ。でも好き。

 

 人間が変化していく生き物である以上、これからも“見える”モノの存在は自然と増えていくのだろうけれど、その中で“見えなくなる”モノもきっとあるのでしょう。

 それでも、たまには見えなくなったモノを“見ようとし”てもいいんじゃないかな、と。そうすることで辛うじて見えたモノから、また新たに“見える”ようになる世界だってあるかもしれないし。

 

 何を言いたいのか分からなくなってきましたが、中学生くらいの頃の視点はどこかに保っておきたいな、と常々考えているおっさん(見た目)の戯言でした。いつもいつでも、潜在的厨二病でありたい。けいろーさんじゅうよんさい。

 

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*1:NDS『大合奏!バンドブラザーズDX』。楽器のパートごとの演奏が可能。