「批判」できる人に憧れるだけの人生だった


 ある物事に対して「批判」できる人がすごいと思う。誰かの主張や言説、既存の制度や社会的枠組みに対してその是非を問うた上で、さらに自身の意見を論理的に明示できる人。

 長年にわたって大きな疑問も持たず、「当たり前」や「多数派」に乗っかって生きていきた僕のような人間からすれば、それはとんでもなくすごいもの。

 もちろん、何の疑問を持たず違和感も怒りも持たず流されるままに過ごしてきたわけではないと小声で主張したくはあるけれど、それでもやっぱり「批判」できる人を尊敬しています。僕は、違和感や疑問のその「次」まで考えが瞬時に及ばないので。

 そんな、「批判」について思うことをば。

「それってどうなん?」という違和感や疑問、そしてツッコミ

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 「ん?その話って、ちょっとおかしくね?」
 「いやいや、その考え方はどうかと思うぜよ」
 「それは違うよ!絶対に良くないよ!」

 ──などなど、違和感や疑問を抱いて「ツッコミ」を入れるだけなら簡単なのです。

 常に周囲の指示や意見のみに従って生活している人なんてそうそういないでしょうし、逆に自分の信念や考えだけを絶対のものとして、社会的な規範をオールスルーして動いているような暴走ロボットだっていないはず。いたら怖い。ってかヤバい。近寄りたくない。

 多くの人は、「自分」と「他人」あるいは「自分」と「社会」のすり合わせというか、双方の認める部分は認めて、認めない部分は認めないというバランスの上で生きているわけであって、そういう意味での「違和感」や「疑問」は自然なものであるはず。

 ただし、誰もがそれらの「あるぇー?」といった感情を明確に言葉にできるとも限らない。自分の違和感や疑問を外に出して表明する以上は、他者にそれを納得させる(“違和感”のいち意見として把握させる)ための理由付けが必要になり、それには言葉を尽くさなければならない。

 「僕がおかしいと思ったから、おかしいんだ!」と声を大にして発することは自由だけれど、それだけでは周りは納得できない。「お、おう」と聞くだけ聞いて(あるいは完全にスルーして)、あとは遠巻きに見守るだけになるでしょう。だって、わかんないんだもの。

 ときどき、どこぞのブロガーが他のブログにいちゃもんをつけたとか喧嘩を吹っかけたとか、Twitterユーザーが有名人を誹謗中傷したなんて話も耳にしますが、その多くは「批判」ですらない、ただの「ツッコミ」なんですよね(もちろん、明確に批判を展開している人も多くいます)

 「あるぇー?」と思って批判しに行ったはいいものの、その疑念の具体的な内容と、それに対する自分の意見、さらには主張の妥当性などを考えずに切り込みにいった結果、「なんか変なのが来た」と無下にされるパターン。おまえは何を言っているんだ。

 あらゆる意見や物事に対する「批判」はあって然るべきものなんだろうけれど、それ以前の問題でござる。「違和感を感じる」「それはどうかと思う」「考えさせられる」と言うだけなら簡単なのです。その先へ向かうなら、体力勝負を覚悟せねば。

「批判」は疲れる

 その点、他人の主張やある物事を「批判」することは、自分の体力だか精神だか何かを消費する、ものすごく「疲れる」行為だと思う。

 「それは違うだろう」と切り込むだけでは終わらず、「なぜならば〜」という理由付けが必要になってくるし、それが相手に届けば反論が返ってくることもあるでしょう。それがさらに議論へと発展し、周囲も巻き込んでどうの……なんて展開もネットではよく見られる。

 でもだからと言って、途中で投げ出すわけにはいかない。そのときどきのケースにもよるかもしれないけれど、こちらから「批判」として異論を唱えに行ったのなら、そこにはある種の責任が発生するはず。

 完全に双方が納得する形での帰結を迎えることは難しいとしても、どこかしらに着地させる必要はあるように思う。言葉を尽くして結論がはっきりしなくても、「こういう話をした」とまとめる作業はあってもいいし、「結局分からなかった」もひとつの結末ではないかしら。

 じゃあ何が悪いかと言えば、有耶無耶にして逃走するだとか、途中で“何かが起こって”言葉が通じなくなるような形。有耶無耶にするくらいなら最初から批判しなければいいのだし、中途で話し合いがその形をなくしてしまうのはなんだかもったいない。

 だからこそ、そんな“疲れる”批判や議論に立ち向かうことのできる人を僕は尊敬しています。皮肉でも何でもなく、素直に心からすごいと、参考にできるならそうしたいと思う。

 ただ、ネットでの「文字」のみを介した議論には限界があることもわかってはいるつもり。どれだけ言葉を尽くしても伝わらないことは多々あるし、そう考えると仕方がないのかな、とも。“伝わらない”という前提を持っていた方が、ネットでは楽なのでしょう。

数の論理ではなく、自分の考えを

マスコミの権力を疑うよりも、彼らが醸し出している空気に乗っかって、魔女狩り的なツッコミを行っている。この場合のツッコミは「叩き」を同義であり、見えないツッコミは数の論理で相手を追いつめていきます。

槙田雄司著『一億総ツッコミ時代』より)

 こちらの本では、社会に蔓延しているツッコミを「他罰的」なものとして批判していますが、これは一面的には真実だと思う。

 「みんながおかしいと言っているから」「あの人が悪いと話しているから」という理由で批判・ツッコミの波に乗っかるだけで、そこにはその人自身の意見や感情が見て取れない。感情的なら良いという話ではないけれど、他人に同調するだけというのはちと怖い。

 実際に共感したのならしたで、その点を自分の言葉・論理をもってツッコんで欲しい。“ツッコミの角度を変える”と言いましょうか。多数派の一人としてだけではなく、そこに「自分」を乗っけた方が説得力も増すと思う。

 ツッコまれる側としても同じツボを突かれ続けるよりは、様々な角度からツンツクツンと刺激された方がいいんじゃないかと。ここか!ここがええのんか!ぐへへへへ。

 それと「ツッコミ」関して言えば、周りから見て能力のある人や人気を集めている人って、「ボケ」か「ツッコミ」かで考えると明らかに「ボケ」である場合が多いように見えるんですよね。もちろん、お笑い界ではツッコミも重要っすよ!

 単著を出すような人気ブロガーにせよYouTuberにせよ、そこにはその人オリジナルの「主張」や「」があって、そこには他者に対する「ツッコミ」というよりも自らの内部から溢れだす「ボケ」としての要素が大きいように思うのです。純粋におもしろい。

 もちろん、他者に対するツッコミや言及で人気の人も多くいます。彼らは彼らで何というか、「ツッコミボケ」のような味を持っているのではないかしら。ツッコミの中にもその人独自の魅力が付加された、ツッコミ要素を持つボケの一種。ブコメとかそんな感じ?

 あらゆる物事に対して「良い/悪い」という評価をするのではなく、もっと「好き/嫌い」という感情を表現してみてはどうでしょうか。

 多くの人は、何かを「好き」あるいは「嫌い」と表明しているようで、あまりしていません。「嫌い」とは言わずに「ダメ」と言う。「良い/悪い」や「アリ/ナシ」もそう。最近では「これはひどい」なんていう便利な言い方もあります。

 これまた『一億総ツッコミ時代』の引用ですが、この通りなんじゃないかな、と。ブログでも何でも、「好き/嫌い」の感情に溢れたコンテンツは魅力的なものです。愛のままにわがままに語ったものの方が惹かれやすい。それがたとえ、ネガティブな感情であっても。

 ……っていう風に書くと、この記事自体が「ツッコミ」的な要素の強い内容なのでさらにツッコまれそうですが。「好き」はともかく、やっぱり「嫌い」を言葉にするのは難しいっすね。それなら素直に、「それな!」と同調した方が簡単だし、楽しい。

 「それな!」の後に愛を語ればいいのです。良いものには良い、悪いものには悪いと、はっきり自分の言葉で言えるようになりたいっす。はい。

 「あまりに何でもかんでも批判したら、自分が生きづらくなるだけじゃね?“やってもいけない”を増やし過ぎたら大変だべ?疲れるべ?」って内容で考えていたつもりが、いつの間にかブレてた。

 

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