ぐるりみち。

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“思考停止”が当たり前の生活で、思考の海を揺らぎ続けるには

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 読みました。この言葉っておもしろくて、一般的に認識されている意味としての「考えるのをやめた」を言い換えるだけで、多様な解釈ができるんですよね。

 

 もう何回目かになりますが、「思考停止」という言葉について思うことをば。

 

 

“決めない”思考停止と、“決めつける”思考停止

 「思考停止」という言葉を聞いて、わき上がってくるのはどのようなイメージだろう。

 

 ろくに自分の頭で考えもしない、愚か者?
 ふわふわと流されるまま生きているだけの、幸せ者?
 自己啓発系の本や講演でやたらと耳にする、胡散臭い言葉?

 

 基本的に「思考停止」は避けるべきものとされ、自らの思考を放棄した人が良い目で見られることは少ないように思います。偉い人も、“人間は考える葦である”なんて言ってるし。

 なんでもかんでも人任せ。集団行動では周囲の流れに身を任せ、積極的に主張しない。「晩飯、何にすっぺ?」と聞かれて、「どこでもい〜よ〜」と言うような適当人間。端から見れば、何も考えていないようにしか見えない自由人。それは、あまりよろしくない。

 

 しかし一方では、安易な決め付けも「思考停止」であるとして批判されがちなもの。

 

 「ゆとり世代は指示待ち人間」「田舎者は世間知らず」「◯◯人はクソだ」などなど、いわゆる「レッテル貼り」と呼ばれる行為。多くの場合、それらは個人の印象論でしかなく、明確な根拠も理論もへったくれもない決めつけに過ぎません。

 

 “決めない”のは思考停止。
 でも、“決めつける”のも思考停止。

 

 それならば、止まっていない僕らの「思考」はどこにあるのだろう。

 

僕らは日々「思考停止」を決断し、諦めながら生きている

 そう考えると、僕らは常に「思考停止」しながら生活を送っていると言えなくもない。

 

 「思考停止」とは、言い換えれば「決断」のことでもある。 ある事象に対して「こうしよう!」 と自ら決めて、実際にそのように行動すること。ということは、「思考」は決断前の悩んでいる状態ということにもなりますね。

 

  • 思考……朝食はパンにしようかな?ご飯にしようかな?
  • 決断……よし!時間もないし、今朝はパンにしよう! = 【思考停止】

 

 要するに、あらゆる物事について自分で“決め”てしまった途端、それは「思考」から「思考停止」状態に切り替わったことになる。

 いつまでも、選択肢の前で立ち止まってはいられないのです。RPGだってギャルゲーだって、選ばないことには物語が進まない。そう、僕らは“選択が未来を紡ぐRPG”*1を生きているのです。テイルズオブジンセイ。

 

 ということは、広い意味での「思考停止」は別に悪いものでも何でもなく、日常生活を送るにあたって必要な「決定」のことであるとも言える。

 “広い意味で”と書いたのは、普段から自然と下している「決定」は前向きなものに限らず、ネガティブな方向であっても「決断」であることに変わりはないから。

 それが、「諦め」の思考停止。「考えるのをやめた」に代表されるものであり、先ほどの「晩飯はどこでもい〜よ〜」というような適当っぷりも含むもの。

 

 「諦める」と言うと、どうもネガティブな「逃げ」や「無関心」「無価値」といった意味合いが想像されるものだけど、それすらも実は「決断」だったりする。

 さっきの「晩飯はどこでもい〜よ〜」だったら、「僕は選択を放棄することを選んだんです!」と言い換えることもできなくはない。自分勝手でもなく、優柔不断でもなく、「おまかせ」という名の「諦め」であり、「決断」であり、「思考停止」でもある。

 

 そういう意味で、「諦観」あるいは「妥協」という形での「思考停止」だって、なんら責められるべきものではないと思うのです。

 文句がありながらも声を上げない選択もあり、あえて上を目指さず現状維持に甘んじる選択もあり。それらは日常で当たり前に選択している「決断」であり、決定に至る過程にその人自身の明確な「思考」があるのなら、その「思考停止」は尊重されるべきものでしょう。

 

最善を選び取るため、「思考停止のポイント」を考える

日本のサラリーマンで結婚して子どもがいて、日々の生活を守るために犠牲になっていると思っている人もいるでしょう。でも深く考えても、この生活をどうにかする事なんて思いつかないし、それなりには満足している生活をしている場合もあると思います。家族とは、サラリーマンとは、社会とは、という自分の中での固定概念を超えていない状態とも言えない事もないですよね。

これを思考停止状態というかどうか?

(中略)

家族を捨てるという現実問題から思考停止を行っているとも考えられるし、このままの生活で良いのか?と自分の問題を真剣に考えている状態だから思考停止とも言えないと思ったり。

これって、どっちですか?

 

 冒頭の記事で、鈴木さんはこのように問題提起をしておられます。

 この、決断しているようでしていない状態、現状を現状として認めて妥協しているように見えながらも、他の可能性・選択肢を考えている状態って、過去に何度か記事中で引用した「揺らぎ」の状態なんじゃないかと思います。

 

自分の頭でものを考えるとは、
常に「揺らぎ」続けることでもある。
絶対というものを持たず、不安定なまま、
自分の内面、まわりの人間や状況に応じて、
その場、できる限りの
ベストな判断をしていこうとすることだ。
ところが、これは、なかなかしんどい作業だ。
だから、
揺らぎを止めて、ゆるぎないものに
どかん! と腰を下ろしたくなる。
それが「思考停止のポイント」だ。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

 「これや!」と決断してしまうことを避け、あらゆる可能性から目を背けずにベストを追求する考え方。これって楽に見えるようで、意外と辛い。

 決断しない、落ち着かない、ナニモノにも染まらずに揺らぎ続けるのは怖いし、落ち着かない。年度末、次の配属先が決まらずにやきもきさせられるとか、無職であり続けることは不安と隣合わせだとか、そんな感じ。

 そこで、決めてしまえば楽になる。納得のいく答えを見出し、「これや!」と決断する根拠となる部分が「思考停止のポイント」であり、その人自身の判断基準・価値観と呼べるものなのではないかしら。

 

 もちろん、この「揺らぎ」の状態は全く悪いものではないし、自分自身の考え方や価値観の再整理を行おうとするのであれば、むしろ「揺らぎ」の中にその身を置き続けることで見えてくるものもあると思う。ダルいけど。

 けれど、それこそが「考え続ける」ことだと思うし、「思考停止」しないことだ。ゆくゆくはどこかで「これや!」と思考停止のポイントを見つけて落ち着く必要は出てくるのだろうけど、それまでは考えに考え抜くことも良い刺激になるはず。

 

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『銀の匙 Silver Spoon』2巻10話より【(C) 荒川弘・小学館】

 

絶対ということがない状況の中で、
私たちは、その時々に何かを「決め」なくてはいけない。
本来揺らぎ、これからも揺らぎ続けるものを
決断するわけだから、何かを決めた瞬間、
残る「揺らぎ」は自分で引き受けなければいけない。

そこに責任が生じる。
責任を持つと、常にこれでよかったか、
問い続けていくから、その人の思考は鈍化しない。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

 決断しないから、揺らぎ続けているからと言って、責任を放棄したわけでもない。自分が“揺らぎ続ける”という選択をもって「思考停止」しているとも言えるので。

 大切なのは、自分の「思考停止のポイント」を見極め、その上で「揺らぐ」か「揺らがない」か、自ら意識して選択することだと思います。疲れたら、思考停止してもおっけーじゃん?

 


「青春」とは、揺らぎ続けることと見つけたり。

 

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