『武器としての書く技術』ネットで「書く」ことを再考する


 

 イケダハヤトさんの著書、『武器としての書く技術』を読みました。イケダさんのブログは2年ほど前から読んでいますが、単著を読むのは初めて。

 ざっくりと一言でまとめれば、「ブログやろうぜ!」がひとつのテーマ。

 先日、『危険な文章講座』という本を読みましたが、広く「文章」や「ことば」について言及したそちらと比べると、本書は一般的な「文章術」というよりは、明らかに「ブログ」に特化した内容

 おそらく、想定読者層もイケダさんの名前を知っている人なのではないかしら。彼、あるいは彼のブログについて、少なくとも耳にしたことがあり、その方法論や考え方に関心を持っている人たち。「ブログで稼ぐ」という文脈で言えば、『ブログ飯』に近しい印象です。

 「稼ぐ」云々は置いておくにしても、インターネット上で「文章」や「ことば」を用いて情報発信をしている人、しようと考えている人に、おすすめの1冊です。

 

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「文章」の視点からブログについて再考する

 本書『武器としての書く技術』の主題は文字どおり、「文章」「書く」こと。具体性の伴った方法論や指摘が多く、すぐに使えそうなノウハウが記されています。

 たとえば第1章は、基本的な「文章術」に関する指摘。句読点や語尾の調整、文章にどれだけ「自分」を出すかのバランス、本音を書く、結論から始める――など。

 続く第2章も、その発展形。主に「読者」目線の書き方や、文章構成、タイトルづけ――など。すでにブログを書いている人や、普段から文章に携わっている人からすれば当たり前だったり、自分なりのスタイルができあがっている部分とも言えるかもしれません。

 

 それゆえ、これからブログを始めるような人や、ブログを始めたはいいものの、まだ形が定まっていない人にとっては、かなり役立つ知識が詰まっているという印象を抱きました。

 逆に、知っている人はすっ飛ばしてもOK。僕自身は、常に実践している共通点が多い一方で、「ここはちょっと違う」とか「これは、やり過ぎるとうざいんじゃ……」なんて疑問を持つ箇所もあり、考えなおす良いきっかけとなりました。

 

 一例として、この点はものすごく共感。

 文章を通して何かを伝えるときには、「パッケージ」を意識しましょう。自分の知識や体験を切り出し、まとめ、タイトルをつけ、読んでくれる誰かにパッケージとして届ける。そんなイメージです。

 その意味で、文章、特にブログ記事は「贈り物」に似ています。人々が集う広場に「これ、誰かが役立ててくれるといいな」と受取人の顔を見ずに、プレゼントをそっと置いておくような、小粋な贈り物です。

 

 まさしく。……ぶっちゃけ、ほかのブロガーさんと比べると、自分はあまり読者さんを意識できていない人間だとは思うのですが。

 それでも「誰かが読んでくれたらいいな」という気持ちで、ある特定層を意識して書いた文章はいくつもあるので。それで実際にメールをいただけると、やっぱり嬉しいですし。うふふ。

 

 一方、自分が「できていない」と感じる点。

 文章を書いていて余計なテーマやメッセージが入り込んでくるようなら、記事を2つ以上に分けることをおすすめします。自然と語り出してしまうくらい熱い思いがあるのなら、もう一本記事を書くことは難しくありません。

 ひとつの文章で伝わること、読者が覚えていられることは多くはありません。この「ワンテキスト・ワンテーマの法則」を覚えておいてください。

 

 この点については、見直すべきなんだろうなー、と。常に「好き勝手」に書いていると、どんどん文量が多く冗長になり、「無駄に熱量はあるけど何が言いたいのかわからない」記事ができてしまう。これは、よろしくない。

 

 このように、本の序盤だけでもそこそこの情報量があるので、ブログを運営している人に広く勧められる内容かと。

 「ネットで調べれば出てくる、基本的なことじゃね?」というのも、半分くらいはそのとおりかもしれません。でも、その手の指摘すべてを通して読むことのできるサイトや機会は、なかなかないようにも思います。まとめて学びたい方は、ぜひぜひ。

 

割り切る?割り切らない?

 また、本書は「文章」を主題にした内容がメインとなりますが、同時にイケダさん個人の「ブログ論」を知ることのできる本でもあります。

 

 書き続けることのできる人は、用意にものごとを割り切ろうとしません。

 一方で、書くことがなくなってしまう人は、ほとんど無思考に、さまざまなことを断定して満足してしまいます。そこには血がにじむような戦いはなく、ほとんど思い込みで断定します。深く考えずに、「死刑は廃止すべきではない」とか「子どもは親が育てるものだ」とか言ってしまう人たちです。世の中はそんなに簡単に割り切れないのにもかかわらず……。

 (中略)優れた物書きは、世の中の割り切れなさに延々と向き合い、自分なりの答えを見つけつつも、断定的に語ってしまう自分に違和感を抱き続ける人です。

 

 この意見については、概ね同意です。もちろん、最終的にはどこかで断定しなければいけない物事が大半であることも事実ですし、ずっとどっちつかずで揺らぎ続けていては、あまり周囲からは良い目で見られないでしょう。

 僕はブログの意義のひとつとして、他人に「別視点」や「気づき」をもたらすことができる、という点があると考えています。専門家でもその筋の権威でなくとも、個人が自由に、別の切り口から考え、発信することが可能な点。

 Twitterやブックマークのコメントによって、そこからさらに意見が広まり、多種多彩なツッコミがもたらされるのも魅力的。ただし、時にはその自由がもたらす無遠慮や、無知ゆえの弊害として、特定層を傷つけ、炎上するようなケースもあり得ます。そこは気を付けるべきなのかな、と。

 

 そのように “割り切らない” 多様性をイケダさんは肯定する一方で、次のようにも書いています。

 まずシンプルにいえることは、誹謗中傷は気にする必要はありません。何を言われようが、基本的にスルーしましょう。書き続けることが最優先、無駄に心をすり減らすことはありません。

 本心から語った言葉が批判を浴びたとすれば、それはむしろ、喜ばしいことです。なぜなら、あなたが語ったその言葉は、周囲の人々には理解できない「新しさ」を持っているということだからです。

 (中略)「新しすぎるものは周囲には理解されない」というのは真実です。もし本心からの発言が強烈な批判を浴びるのなら、それは「新しすぎること」が原因であると考えるようにしましょう。

 

 意味をなさない誹謗中傷や罵詈雑言をスルーするべき、というのはわかります。ただ、そこで振りかかる批判までをも「『新しさ』が理解されなかったから」と断定して無視してしまうのは、ちょっと怖いようにも思います。

 たしかに、日頃から膨大な「ツッコミ」と相対しているイケダさんからすれば、そのように前向きに捉えることで、ブログを書き続ける原動力している部分があるのかもしれません。

 しかし、自分の本心から書いた文章への批判に対して、そのすべてを「新しいから理解されない」と決めつけ、スルーしてしまっては、より大きな炎上を引き起こしかねないのではないかと。

 

 炎上を良しとする考え方がある一方で、誰もがそれに耐えられるわけでもないのもまた事実。この辺りの「どこまで書くか」というバランスについては、各々に依拠されるべき、というのが僕の考えです。

 ……なんてことを言ってしまうと、結局は「人それぞれ」が当たり前、という話になるのでしょうが。何についてもそうですが、最初は誰かの方法論を参考にするとしても、最終的には自分自身に最適化された「型」を目指すのが理想だと思います。

 

『ブログ飯』との違い?

  有名なブロガーさんによる著書と言えば、他には冒頭にも挙げた染谷さんの『ブログ飯』などもあります。

 

 

 いずれも「ブログで稼ぐ」という、大テーマは共通していますが、方向性は少し違うように読めました。

 一口に言えば、『ブログ飯』は「楽しく、個性的なブログを続けるための考え方」。対して、『武器としての書く技術』は「『書く』ことで自らの可能性を広げるための方法論」

 

 おおよその内容は似ているかもしれませんが、前者が「違い」「差」を意識することを強調しているのに対して、後者は「書く」ことにフォーカスしている印象が強かったです。

 勧め方にしても、前者が「ブログって楽しいよ!」といった読後感を持つのに対して、後者は「ブログならいろいろできるよ!」といった可能性を提示しているようなイメージですね。

 どちらが良いという話ではなく、小さな個人ブログを運営している身としてはいずれも参考になる内容でしたので、ぜひともおすすめしたいところ。

 

 最後に、本書『武器としての書く技術』の中で、最も共感した部分をば。

 自らのノウハウを公にすることが難しければ、とりあえず「備忘録」としてのブログを書き始めてみるとよいでしょう。

 ブログには「外づけハードディスク」のような機能があります。本のなかで気になったセンテンス、受講したセミナー、刺激を受けた話などなどを、ブログという空間のなかに蓄積し、いつでも引き出せるようにしておくのです。これは間違いなくあなたの役に立ちます。

 

 

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