ぐるりみち。

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友達の家でテレビを観ながらダベるのが苦手

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photo by Whitfield-In-World

 

 寒い冬の夜。友人宅にて。

 

 複数の「◯◯鍋の素」をぶっ込んだ闇鍋は、思いのほか美味でござった。古今東西、様々なダシが絡み合い、新たな異文化交流が誕生していた。そう、これは食のシルクロード。僕らは、NABEの新境地を開拓したのである。さすがは、EBARA。

 シメの雑炊も食べ終わり、こたつを囲む友人たちの視線は、テレビに注がれている。某大企業重役の息子たる彼の部屋のテレビは、とんでもなく美麗だ。

 これが、“ふるはいびじよん”というものだろうか。サイズもお値段も分からないが、とにかくすげえ。語彙が貧相になる程度にはすげえ。ぱねえ。

 

 200年も前の人間が見れば、「しょ、障子の中に人がいるでござる!あにゃー!」と叫びそうなハイカラ画面に映っているのは、老若男女の芸人たち。よくあるバラエティ番組だろう。

 これだけいれば知っている人もいるけれど、時世に詳しくない僕は呆けておる。……ち、ちがうのだ。この頬に流れる水は涙などではない。汗だ。べっ、べつに疎外感を味わっているわけじゃないんだからねっ!ちくせう……あ、ふなっしーだ。ひゃっはー!(裏声)

 

 ――そうなのです。僕は、友達の家でテレビを見ながらうだうだやるのが苦手なのです。それなら、「麻雀しながらダベろうぜ?」とか、「そんなことよりマリカーだ!」とか提案したくなっちゃうのです。“観ているだけ”というのは、どうにもつまらない。自発的にナニかしたい。

 

 なーんていうのは、僕だけかしら?

 

 

単純に「知らない何か」を観ているのがつまらないだけ説

 どうして僕が、友達の家でテレビを観ながら「ワハハ」とか「ガハハ」とか擬音を出すのが苦手かと言えば。そもそも、“自分がテレビっ子じゃないから”という理由が大きいようにも思う。ちなみに、僕はどちらかと言えば引き笑いです。「ワハハ」ではなく「アヒィーヒッヒィーッ」が近い。キモい。

 

 

 こちらの記事でもちょろっと書いたように、僕は昔からあまり「テレビ」を観ない子だった。俳優も芸能人も、よっぽどいろいろな番組に出ている人か、自分の観ている数少ない番組(大河ドラマ、クイズ番組、他)に出演していない限り、顔と名前が一致しない。

 お笑い芸人さんはからっきしだし、彼らがダベっているバラエティを観ても「??」状態。……え? 俳優さん? え、NHKの連続テレビ小説か、大河ドラマに出ていた人なら知ってるよ! 石原さとみさんと上野樹里さんはセットで覚えてるし*1、堺雅人さんは山南さんだよ*2

 

 そんな、「テレビ文化」に対する無知具合も相まって、話についていけないのがつまらない、という要因は否定できない。むしろ、最大の原因まである。

 本当に何の前情報もなく、誰もが楽しめる番組って意外と少ない、というか思いつかない。そう考えると、最低限、周りに着いて行くための知識は「常識」として持っておくべきなのかもしれないし、“知らない”ことは罪なのかも……?

 

コメディ色の強い映画なら無問題

 ただし、「映像は全部ダメ!」というわけでもなく、コメディ調の映画作品なら割と楽しめていたような記憶がある。 

 大学時代には、図書館で友達数人で『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』*3をバカ笑いしながら観ていたこともあったし。アレも事前情報(=ドラマ版)が必要だったようにも思うけど、観てみたら、意外とそうでもなかったという。突き抜けるくらいにぶっ飛んでいたからかしら。謎だ。

 

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B.A.かわいい(映画「特攻野郎Aチーム THE MOVIE 」予告 HD - YouTube)。

 

 けれど、ストーリー性の強い作品は無理。アニメでもドラマでもなんでも。登場人物の台詞と一挙手一投足に注視して観たいし、演出も気になるし、BGMにも耳を澄ませたい。

 一緒に映画館に行って、集中して観た後、あーだこーだと話すのは好きだけど、その場でツッコミを入れながら観るのには慣れないや。「うっせぃ!集中させろぃ!」って逆に突っ込みたくなる。めんどい奴でごめんなちゃい。

 

“友達の家で友達がゲームをプレイしているのを観ているだけ”感

 みんなでテレビを観ているときの気持ちを例えるなら、これ。“友達の家で友達がゲームをプレイしているのを観ているだけ”感。なげえ。

 

 特に、RPGとスポーツゲーっすね。今になって考えると、どうしてあんな“観客”に甘んじていたのか不思議でならないんだけど、小学生時代はしばしばそんなことがあった。

 友達の家に行って、友達がFFやらゼルダやらパワプロやらをプレイしているのを1〜2時間ほど見学して、「じゃーねー!」とバイバイするという謎ルーチン。コントローラーに触れてすらいないよ!友達のカーチャンが持ってきてくれるエンゼルパイは超うまかったけど!

 

 5、6人くらいで集まって、基本が4人プレイのN64*4の順番待ちをしているならいいんすよ。

 スマブラやマリカーなら、数分で1戦が終わり、すぐに自分の順番が回ってくるので。“負け抜け”方式で、大抵はソフトの持ち主が無双していたけれど。あまりに理不尽だったので、練習して、マリカーだけは無駄にうまくなりました。64版、DS版、Wii版なら負けない。

 

PERFECT DARK 同梱版

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『パーフェクトダーク』、大好き。

 

 話が逸れた。こうして見ると、みんなで“テレビを観るだけ”という「受動感」と、その内容を“自分だけが知らない”という「疎外感」が、大きな要因としてあるように思う。

 

 せっかくみんなで集まっているのに、受動的に画面を観る“だけ”で、しかも、それを自分“だけ”が知らないという。そりゃあつまらんですよ。

 もちろん、それが嫌いじゃない人の方が多いだろうことは分かっているつもりだし、結局のところは、仲間はずれになっているのが気に食わない、ただそれだけなんだろうとも思いますが。反対に、ゲームや麻雀や映画に魅力を感じない人だっているでしょうし。

 

コンテンツとコミュニケーション、どちらを重視するか

 もうひとつ、この件を考えてみて思い浮かんだのが、コンテンツか、コミュニケーションか、という視点。

 ある人が、情報や創作物などの「コンテンツ」に触れるとき、その本質的な「内容」を重視するか、あるいは、それに付随する「コミュニケーション」を重視するか、といった話。

 

 「コンテンツ」を重視する人からすれば、そこで発生する「コミュニケーション」は副次的な産物に過ぎない。価値があるのは情報そのもの、内容であり、創作物の評価は自分の内で定められるべき。

 「コミュニケーション」を重視する人からすれば、「コンテンツ」はそのために消費されるものに過ぎない。仲間と同じ情報や創作物を共有し、そこで発生する交流こそが重要。ゆえに、コンテンツは代替可能な消費物。

 

 僕は、間違いなく前者。自分の「好き」を仲間と語るのも楽しくはあるけれど、そちらに注力し、話についていくため、惰性でコンテンツを消費することには懐疑的。流行っているモノについて広く浅く触れるよりは、自分にとっての「お気に入り」を探したい。

 

 ただ、最近は興味の範疇が広まりすぎ、世にあるコンテンツが増えすぎで、どんどん未消化のものがたまっている感じはある。積ん読とか。

 次から次へと新しいコンテンツが現れるので、結局は、惰性的になっている感じは否めない。かと言って、コミュニケーションが充実しているわけでもありませんが。

 

 コンテンツか、コミュニケーションか、と言うと、どうも旧来的な「おたく」か、マジョリティとしてアニメやニコニコ動画に親しんでいる最近の若年層か、といった区分けが思い浮かんでしまうのですが、どうなんじゃろう。

 

 

 次々に最新クールのアニメの情報を収集して、それらを“消化”し、その話題で楽しんでいる中学・高校生辺りの層を見ると、「コンテンツ」の前提として「コミュニケーション」があるように感じる。

 かと言って、旧来的な「おたく」が内へ内へ引きこもって、交流していなかったかと言えば、そんなこともない。昔から小さなコミュニティはあったはずだし、そこで、お気に入りのコンテンツ談義に花を咲かせていた人はたくさんいるんじゃないかしら。

 

 「コンテンツ」について一度、改めて自分に対して問い直してみるのは、良い機会になるんじゃないかと思う。自分が重視しているのは、作品そのものなのか、ファンや仲間同士で語り合うことなのか。

 後者だとしても、自分にとって特別に「好き」なコンテンツはあるだろうし、前者は前者で、その「好き」を同好の士と語り合いたいと思っていてもおかしくない。

 

 「コンテンツ」か。「コミュニケーション」か。
 あなたが重視しているのは、どちらですか?

 

 

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