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『僕たちのゲーム史』2つの軸から“ゲーム史”を解きほぐした本

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photo by Dr Case

 

“スーパーマリオはアクションゲームではない”

 

 少し前に読んだ、さやわか氏の著書『一〇年代文化論』。そちらがとても気付きの多い内容でおもしろかったこともあり、今回、氏の前著も読んでみました。

 

 

 それがこちら、『僕たちのゲーム史』(星海社新書)。

 

 一口に「ゲーム」と言っても、ボードゲームなどのアナログゲームから、据置型のテレビゲーム、そして昨今人気の携帯アプリまで、様々。

 本書では主に2つの基準を軸として、それら「ゲーム」について広く触れつつ、その歴史を辿っていく内容となっております。

 

 その基準とは、以下の2つ。

①ボタンを押すと反応する

②物語をどのように扱うか

 

 これらをゲームで語る上での軸として、数十年に及ぶゲームの歴史の中で、何が変化し、何が変わらずに残り続けてきたのか。その変遷を解き明かしつつ、僕らの身近にある「ゲーム」について再考することを促す、良書でありました。

 

 そんな本書を、簡単にご紹介。

 

 

ゲームの定義と、変わるもの、変わらないもの

 本書の冒頭で、筆者は次のような疑問を投げかけています。

『スーパーマリオブラザーズ』のようなゲームは、どうして生まれなくなったのだろう?

 

 1985年発売。全世界で4,000万本以上売れたと言われる、「コンピュータゲーム」の代表的なソフト。社会現象を巻き起こし、多くの人を魅了し、今なお愛されている作品。

 ところが近年では、たとえ販売数が多くとも、社会現象となるほどの超々大ヒット作は生まれていない。普段はゲームをプレイしない人でも、老若男女、誰でも名前を知っているような作品は見られない。それはいったい、どうしてだろう?

 

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『スーパーマリオブラザーズ』より、おなじみのスタート画面。

 

 他方では、大人の「ゲーム離れ」が叫ばれ、業界全体の売上も落ち込みつつあり、「ゲームは変わってしまった」「つまらない」と語る人が少なくない現状。その面白さが分からない、なんかコレジャナイ感がある――なのに、それらは変わらず「ゲーム」と呼ばれている。

 そうなってしまった理由のひとつとして、筆者は「ゲームの定義」がよく分からなくなってしまった、ということを挙げています。

 

一言でまとめると、「ゲームには昔から変わらない部分と、変わっていく部分がある」ということですね。それが何なのかを突き止めることができれば、人々が「最近のゲーム」から失われたと感じているものがはっきりわかるに違いありません。ひょっとすると、「昔のゲーム」と共通する部分を見つけ出すことで、「最近のゲーム」を楽しめるようになるかもしれませんね。

 

 今のゲームと、昔のゲーム。変わるものと、変わらないもの。それが何なのか。本書では、この冒頭部分でその結論を述べた上で、その基準に沿った代表的なゲームを例示しつつ、解説していく構成となっています。その基準こそが、本記事冒頭の2つの軸。

 

  • 変わらない部分……ボタンを押すと反応すること
  • 変化する部分………物語をどのように扱うか

 

 ボタンを押すと反応するなんて当たり前だし、物語のないゲームだってあるじゃん?というツッコミも一理あります。

 けれど、本書を読み終えた後に再度考えてみると、これらの軸は妥当性を持ったものであるように感じました。特に「物語」という視点は、自分が触れてきたゲームソフトとも強く関連しており、なるほど!と頷かされるもの。それこそが、僕にとってのゲームの魅力でもあったので。

 

スーパーマリオはアクションゲームではない

 第一章では、冒頭に述べた『スーパーマリオブラザーズ』について、その時代背景と特性について検証しています。

 

 曰く、“スーパーマリオはアクションゲームではない”と。

 

 え?『マリオ』と言ったら、横スクロール型アクションゲームの典型的な作品じゃないの?とツッコみたくなりますが、ところがどっこい。そもそもの企画書には、「アクション」なんて書かれていなかったそうな。な、なんだってー!?

 

本ゲームはドンキーコング以来連作してきた“ジュニア”、“マリオブラザーズ”のアスレチックとしての部分を利用し大型のマリオキャラクターによって再構成するゲーム(『スーパーマリオ実験仕様』)

 

 さらに、もうひとつ。後世で『マリオ』が画期的なジャンプアクションゲームとされるのは、「ボタンの機能が一つに固定されていない」という点であるという。どういうこっちゃねん。

 それまでのゲームは、「ボタンを押して操作する」という共通点はあれど、それぞれのボタンに割り振られた機能・アクションはひとつに限られていた。“障害物を避ける”だとか、あるいは“障害物を壊す”だとか。

 

 ところが、『マリオ』や、その前の『ドンキーコング』における「ジャンプ」ボタンは、ひとつの「ジャンプ」という操作で行われる操作に、複数の意味、プレイヤーの選択が反映される形になっていた、とのこと。

 敵を避けるだけでなく、踏みつけて倒すこともできる。障害物を乗り越えることもできる。道も複数存在し、ジャンプによって上の方を通るか、操作は最小限の下の道を行くか、といった選択をすることもできる。

 

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『ドンキーコングJR.』のステージは、まさに「アスレチック」な趣き。

 

 これが意味するのはつまり、先の企画書にもあったように、『マリオ』はあくまでもゴールに到達することを目的とした「アスレチックゲーム」である、ということ。

 その目的さえ達成することができれば、道中でどのボタンを押すか、ジャンプするかしないかといった操作は、プレイヤーの裁量に任せられている。そんな自由度の高さと新しさが『マリオ』の特徴であったと、筆者は説明しています。

 

ゲームの「裏側」や「謎」が求められていた風潮

 付け加えると、当時の説明文や雑誌の煽り文句を読んでも、『マリオ』を「アクション」と説明している言説はあまり見られなかったそうな。

 “アドベンチャークエスト”だの、“ロールプレイングの要素を含んだ”だの、その自由度を前面に出している場合が大半だったということです。

 

 その理由のひとつとして、80年代当時のファミコンの「裏技」ブームがあった、と筆者は書いています。それまでのアクションゲームの単純さに変わる、新しい何かとして、ゲームの「裏側」「隠し要素」「謎」といったものが求められ始めていたそうです。

 ここで例として挙げられているのが、意味ありげなキャラクターの動きと、裏技の存在があった『ゼビウス』*1、ファミコン発のアドベンチャーゲームとして話題となった『ポートピア連続殺人事件』*2など。

 

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『ポートピア連続殺人事件』。日本一有名な「犯人」と言えば。

 

 それら独特のゲームが盛り上がる中で発売されたのが、『スーパーマリオブラザーズ』。世界を探索する奥深さを持つアドベンチャー、ロールプレイングとして、その自由度の高さと裏技の多さが魅力となり、人気を集めたとされています。

 そして驚いたことに、つい先日、また新しいバグ技が発見されたというね。複雑な工程を経たバグとは言え、30年近く経っても新要素が見つかるってすげえ(発売から約30年、スーパーマリオブラザーズの新しいバグが発見される | コタク・ジャパン)。

 

ゲーム史の過去と未来が交差する「1997年」

 続く第2章では、探索ゲームとしての「アドベンチャー」と、役割を演じる「ロールプレイング」の差異。第3章ではシミュレーションゲームの変遷と、『ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣』*3による新ジャンルの形成。

 第4章では、ゲームセンターの文化と、体感・対戦ゲームの魅力。第5章では、CD-ROMのメリット・デメリット、そして、ハード戦争がざっと描かれることになりますが、長くなりそうなので割愛(5章は、「ゲーム機大戦」シリーズ*4に近い印象)。

 

 先ほど挙げた、ゲームの変化する部分、つまり「物語をどのように扱うか」の流れが様々に絡み合い、変化していく境界線の年として、「1997年」を詳細に解説した第6章。そちらが個人的におもしろかったので、ざっとご紹介。

 ゲーム史における「1997年」を考えると、ゲームに「興味ないね」なんて人でなければ、パッと思いつく作品があるんじゃないかと思います。ゲーム機本体の性能が進化しつつある中で、ゲームに「面白さ」を求めるか、重厚な「物語」を求めるか、といった議論がされれいた時期。

 

 そんな最中にプレイステーションで発売されたのが、『ファイナルファンタジーⅦ』*5でした。

 

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『ファイナルファンタジーⅦ』。シリーズ通して、バハムートはカッコいい。

 

 『FF7』はご存知のように、『FF』シリーズでも特に人気の高いタイトル。深く練られた設定と、先の読めないストーリー展開、最新の3Dグラフィックなど、とにかく「物語」を魅せることを重視した作品であったとされています。

 

 ところが、「ストーリーを重視する」ということは、ゲームの自由度を下げることに繋がる場合が多い。最近だと、『MGS4』*6が“ムービーゲー”だと批判されたり、『FF13』*7が“一本道ゲー”だと突っ込まれていましたが、その流れをつくった作品のひとつが、『FF7』なのではないか、と。

 最低限の移動や戦闘、アクションでドラマが進行していくため、「ゲームにやらされている」感覚が否めない。それを端的に表した批判として、筆者は鈴木みそ*8さんが過去に『FF』に対して突っ込んだ四コマ漫画を引用しています。

 

なにやら勝手に話が始まって

ズンズン話が進む進む

ただAボタンを押してるだけ

ただ早く押し続けると話がふっとんでしまうので注意している

動物実験のサルみたいだ

(アスキー『ファミコン通信』1991年10月4日号)

 

 「ゲームの面白さとはなんぞや」といった議論は、今でも頻繁になされているものではありますが、もうずっと昔から続いていたんですね。結局のところは、「その人が何を重視するか」だとは思うけれど、それが時代によって変わっている感じはあるかと。

 

ノベルゲームが拡張する「物語」

 そんな1997年のゲームとして、他にどんな作品を例示するのかなー、とわくわくしながら読み進めていたら、まさかの『ToHeart』でうおっほー! と興奮。いや、その前に「ノベルゲーム」の説明として、『弟切草』*9と初期のLeaf作品が挙げられてはいたのだけれど。

 

 『ToHeart』が特徴的だったのは、ノベルゲームの体裁を取りつつも、女の子のハートを射止めるのが目的の恋愛ゲームになっていたことです。『雫』『痕』はSF伝奇物を意識した謎解きストーリーだったので、内容が大きく変わったことになります。いわば『ToHeart』はストーリー重視のノベルゲームと、それ以前にあった『同級生』や『ときめきメモリアル』などの恋愛ゲームを、融合したような内容でした。

 

 確かに、この後のノベル型美少女ゲームの隆盛を鑑みると、『ToHeart』の影響力は否定できません。……というか、昨今の「オタクカルチャー」を語る評論・言説の多くにおいて、いわゆる“葉鍵”*10作品が取り上げられないことは、まずない。

 全く方向性もプレイヤー層も異なるはずなのに、広くゲームの「物語」を論じるにあたって、この「1997年」という年において、『FF7』と『ToHeart』が同列に語られることのおもしろさ。どちらも等しく「ゲーム」として、後に与えた影響は計り知れない。

 

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『ToHeart』。マルチ*11のイメージが強い。ただ美少女ゲーの緑髪キャラというと、別のトラウマががが。

 

 また、本章では、本当に「ボタンを押すだけ」の単純なノベルゲームだからこそ、ゲーム性にこだわることで、プレイヤーを夢中にさせるような仕組みづくりが見られた、という説明もされており、こちらも興味深い内容です。

 具体的には、『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』*12の、物語展開と辿ってきた選択肢をダンジョンマップのように図示化した点。同様に、『街』*13や『EVE burst error』*14など。これら作品の独特なシステムは、少なからず後のノベルゲームに影響を与えていることは間違いないでしょう。

 

芸術でも映画でもなく、ただ「ゲーム」であること

 本書を読み進めているときは、様々な時代の多種多様なゲームに触れつつも、「ボタンを押すと反応する」「物語をどのように扱うか」という2点に焦点を当てて論じられていたので、特段に詰まることなくすいすいと読めました。自分の好きな作品が出てくれば、「おっ?」となりますしね。

 ところが、それをこうして記事にまとめようとしたら、いろいろな要素が溢れ出てきてなんじゃこりゃー!状態。特に好きな部分を抜き出しただけのつもりなのに、こんなに長くなってしまったという。

 

 それだけ、本書ではそれぞれの作品をピンポイントで取り上げつつ、うまく流れに乗せて解説しているんじゃないかと思います。

 各章を別個に考えるんじゃなくて、本当にこの本一冊で「ゲーム史」を語っているような格好。多分、読んでもらわないと伝わないんじゃないかしら。僕の文章力不足もあるでしょうが。

 

 個人的には、先の6章もそうですが、7章の「ゲームによるコミュニケーション」が自分にとって身近な話題だったので、読んでいて何度も頷かされました。

 『ポケモン』『beatmania』『ガンパレ』『東方』『ひぐらし』。ゲーム本編だけでなく、プレイ中、あるいはプレイ後の「外部との交流」が重視される作品群。僕が好きなゲームは、この範疇にあるものが多い印象。

 

 終盤では、昨今の“スマホゲー”“ネトゲー”についても触れられていますが、基本的にはどれも否定的なニュアンスでは説明されていません。

 本書の結論とも関わってくるものですが、「ゲーム」は時代によって変化するものかもしれないけれど、それでも変わらず作られる「ゲーム」が従来の価値観を覆し、次の「ゲーム史」を作っていく、と。何を言っているか分からないけれど、詳しくはぜひ実際に読んでいただきたいところ!

 

 僕自身はゲーマーでもなんでもなく、プレイしたことのあるゲームもさほど多くないため、特に序盤なんかは知らないゲームばかり、洋ゲーもさっぱりといった身ではあります。けれど、純粋に「ゲーム」が好きな人間として、最後まで楽しく読むことができました。

 

 

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