ぐるりみち。

平成生まれのフリーライターのブログ。本・映画・マンガ・アニメの各種レビューに、旅行・グルメ・街歩き日記など。

ぐるりみち。

【Kindleセール】50%OFF多数!人気コミック・ビジネス書のセール情報

思考停止って悪いこと?自分の頭で考えるため、思考停止ポイントをつくる

f:id:ornith:20140605185044p:plain
考えない人|タカラトミーアーツ
より

 「思考停止」という言葉がある。ビジネス書や自己啓発書で目にすることが多く、一方では “意識高い系” とも揶揄されがちな言葉。このブログでも、主に “ことば” カテゴリーの記事でよく使っている言いまわしです。

 

 僕がいつからこの言葉を使いはじめたかは覚えていない。中学生くらいのときにはもう使っていたような気もするし、高校で読んだビジネス書に感化されたのかもしれない。

 いずれにせよ、自分に言い聞かせるように使い続けてきた言葉だ。自分が流されていると感じた時には脳裏に思い浮かべ、考えることを放棄しないよう、呪文のように唱えてきた。 スリザリンは嫌だスリザリンは嫌だ……。 果たして効果があったかは、怪しいところだけど。

 

 ただ「思考停止するな」と言っても、「どこまでそれを考え続けるか」というのは難しい問題だと思う。物事や自分の選択について考えるとき、多くの場合は、最終的に「結論を出す」ことを求められる。決めること。信じること。

 どこで思考を止めるか。止めてしまってもいいのか。本当にそれで納得できるのか。考え始めたらキリがないようにも思いますが、そんな「思考停止のポイント」について再度、考えてみようと思います。

 

「思考停止」を言い換えると……?

 「思考停止」という言葉は、まるでそれがとても悪いものであるかのような扱いをたびたび受ける。「安易に決めるのはよせ」「短絡的すぎる」「脊髄反射に気をつけろ」「 “とりあえず” で動くのはアホ」などなど、全て「思考停止」の別表現であると言える。

 その最たるものが、「レッテル貼り」だ。「ゆとり世代は意欲に乏しい」「都会人は人間関係にドライ」「オタクは犯罪者予備軍」など。そのすべてが、「A型は真面目」「AB型は天才肌」といった血液型占いと同様、何の根拠もない決めつけに過ぎない。

 

 なぜ、人はなんでもかんでもカテゴライズし、レッテルをぺたぺた貼りたがるのだろう。一口に言えば、そうしてしまえばわかりやすいし、楽だからだろう。

 アニメが好きな人、一人ひとりの特性・性格を見て判断するよりは、「オタクはキモい!」と決めつけてしまう方が楽。田舎の学生と実際に触れ合うよりは、「田舎の若者は横暴で反社会的!」と定義してしまう方がわかりやすい。

 

 ちょっと方向性の違う話ですが、「とりあえずビール」も類似の考え方であり、一種の思考停止だと言えそうだ。それが当たり前と考えている人からすれば、ほかのドリンクを注文するなんて選択肢はない。

 ゆえに、それ以外の選択を選ぼうとすると驚き、「これだから最近の若者は……」と批判を始める。面倒だから。価値観の違いを受け入れられず、「自分が正しく、他は間違っている」と決めつけてしまう心情。それもまた「思考停止」であり、一度ループにハマると抜け出し辛い。

 

 

「思考停止」と決めつける「思考停止」という無限ループ

 「思考停止」に関する話をしていると、「でも、その考え方自体も『こうだ!』と決めつけてるわけだし、『思考停止』なんじゃないの?」と突っ込まれることがある。実際、それは否めない。

 「思考停止しない」ということは、「決定せず、曖昧なままで考え続ける」状態のことだ。

 そのため、「〜だ」「〜である」といった断定表現を使ってしまうと、そこを突っ込まれてしまいがち。しかし、それを避けようとすれば常に「〜だと思う」「〜かもしれない」といった推定表現を使うしかなくなり、説得力が皆無になる。

 

 「思考停止。ダメ。ゼッタイ。」と言ってしまえば、「思考停止がダメなことであると決めつけてしまう思考停止に陥っている」ことになる。無限ループ。

 同じく、「◯◯教徒の人は思考停止している」「特定の主義主張を持っている人は思考停止している」という批判も、思考停止という「レッテル貼り」をしていることに他ならない。だからこそ、「思考停止」という言葉を使って何かを批判するときは、十二分に気をつける必要がある。

 

「思考停止のポイント」を考える

 要するに「思考停止」とは、物事に「決断を下す」ことであり、ある人や主義主張を「信じる」ことであり、それまでに考えていたことに折り合いをつけることだ(まったく思考しない、直感的な判断でも同様)。

 この「思考停止する=結論を出す」という行為について、山田ズーニーさん@zoonieyamadaはこんな説明をしています。

 

自分の頭でものを考えるとは、
常に「揺らぎ」続けることでもある。
絶対というものを持たず、不安定なまま、
自分の内面、まわりの人間や状況に応じて、
その場、できる限りの
ベストな判断をしていこうとすることだ。

ところが、これは、なかなかしんどい作業だ。
だから、
揺らぎを止めて、ゆるぎないものに
どかん! と腰を下ろしたくなる。
それが「思考停止のポイント」だ。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

 山田さんによれば、どんな人にも、各々の「思考停止のポイント」があるのだと言う。

 「あの人が言っているから信じられる」「自分の経験から考慮すればこうだろう」「データがそろっているし間違いない」など、その人のなかでいつも「根拠」となる判断基準が、人それぞれにあるのだそうだ。

 そのため、自分の基準がどこにあるのかをセルフチェックしてみることで、「考える」力が養われる。上記の記事で挙げられている例として──僕も過去に記事を書いていますが──自分の「口癖」を見直してみるのは、ひとつの手だと思う。

 

 人やモノを褒めるときにいつも「すごい」と言ってしまうのであれば、それが思考停止ポイント。「すごい」で止まってしまっているので、それがどうすごいのか、何が魅力に感じたのか、他と比較しての意見なのか、といった「思考」に至っておらず、停滞してしまっている。

 そこで止まらないためには、単純にボキャブラリーを増やすのもひとつの手だが、何よりも自分の頭で考えるのが効果的なトレーニングとなる。具体的に「すごい」部分を抜き出し、その「すごさ」を自分の言葉で説明し、可能なら他と比較検討する。そうすることで、思考は自然と広まっていく。

 このように、自分にとっての「思考停止ポイント」を見直し、そこで止まらないための対策を考える。先の引用は「小論文教室」からのものなので、そうすることで、自分自身の意見を広める思考力の特訓となるのではないかしら。

 

f:id:ornith:20140605190345p:plain
荒川弘『銀の匙 Silver Spoon』(小学館)2巻 第10話より

 

“揺らぎ” 続けるための「暫定評価」

 とはいえ、決めてしまえば楽なぶん、常に曖昧なグレーゾーンの中で考え “揺らぎ” 続けるのは、非常にかったるい。

 周囲から見ても、「どっちだよ!」「コウモリかよ!」と突っ込みたくなる気持ちはよくわかる。いつも曖昧な、自分の意思を感じられない人は、見ていてもどかしい。

 「これはこうだ!」と決めつけるレッテル貼り。……と言えば聞こえは悪いけれど、言い換えれば、「あるものに対して自分なりの基準を設ける」ことでもある。それは、多くの人が日常的に、当たり前に、無意識にこなしている作業であり、時にはリスクの回避にも役立っている。

 

 たとえば、地方住まいの人が「都会人は人間関係にドライ」という基準を持って上京したとする。

 実際、住むことになったアパートで住人間の交流がなければ、「こんなもんかー」と納得できるだろう。しかし、逆に住人同士のコミュニケーションが盛んであれば、「意外と良い雰囲気じゃん」と好印象を抱くかもしれない。落としてから上げるかたち。

 

 極度な思いこみやレッテル貼りはよろしくないと思うけれど、「もしかしたらこうかもしれない」と低めの評価を見積もっておくことで、悪印象を回避するのはひとつの手だと思う。

 「こうだ!」と決めつけるのはやり過ぎだとしても、「こんな感じかな?」と予想を立てるくらいであれば、後に自己評価の修正がききやすい。物事に「絶対」はないのだと仮定すれば、違っていたとしても「そーなのかー」などと、裏切られたときのダメージも軽く済む。

 

 生活する上で、「思考停止するな」というのは無茶な考え方なのかもしれない。小さなことから大きなことまで、僕らは常日頃から「決断」を積み重ねて生きている。安易な決定を繰り返すことは思考の鈍化につながるかもしれないが、だからと言って、何も決めずにはいられない。

 その折衷案として、僕は「暫定評価」の考え方を提案したい。是か非か、正義か悪か、信者やアンチか、といった極端な二元論ではなく、こっち「だろう」、こう「かもしれない」と、自分のなかで暫定的に評価する見方。

 多くの人は自然とやっていることなのかもしれないけれど、ネットでの感情的な発言などを見ていると、「これは間違いない!」と視野狭窄に陥っている人は少なからずいるように感じるので。

 

 白か黒かの中間で、常に “揺らぎ” 続けることは難しい。ならば、その “揺らぎ” の振れ幅を考えて、その時点ではどちらに大きく振れているかを基準とし、「暫定評価」として自分の主張とする。

 もちろん、そこに落ち着き、納得してしまっては、すぐに「思考停止」に至ってしまう。そうならないためには、その後も “揺らぎ” を止めることはせず、折にふれては「考える」ことを意識し、 “揺らぎ” 続けること。バランスをうまくとりつつも、自身に問い続けていく作業が求められる。

 

絶対ということがない状況の中で、
私たちは、その時々に何かを「決め」なくてはいけない。
本来揺らぎ、これからも揺らぎ続けるものを
決断するわけだから、何かを決めた瞬間、
残る「揺らぎ」は自分で引き受けなければいけない。

そこに責任が生じる。
責任を持つと、常にこれでよかったか、
問い続けていくから、その人の思考は鈍化しない。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

 「自己責任」という言葉は好きじゃないけれど、自分を戒める意味での「責任」は、やっぱり必要だと思います。

 

 

参考

関連記事