「自殺」に関して“個人”と“社会”の両側面から考えたい


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 「自殺」というテーマは人の生き死に関わる重いテーマであり、生半可な気持ちで書いてはいけないような躊躇もありました。

 1年前から積んでいて、ずっと読めていない本があり、まとめるのはそれを読んでから……と思っていたのだけれど。せっかくなので、読む前の考えをざっくりとまとめておこうと思いまする。

 

弱さと強さ、死を選ぶタイミング

 「自殺をするのは弱い人間だ」という人がいる。が、それは全くもってナンセンスだ。問題に立ち向かう勇気がなかった。それ以外の選択肢を選べなかった。それらは個人の〈弱さ〉に起因するものではなく、“たまたまそうなってしまった”からではないかと。

 

 自殺を「弱い」と言う人にとって、それは「逃げ」の行為に見えているんだと思う。問題を解決できないから、どうしようもないから、全てを放棄して「死」を選んだんだろう、と。本当にそうかしら。

 たとえ目の前にある選択肢が「自殺」だけだったとしても、それを選び、行動に移すに至ったのであれば、それは一種の〈強さ〉だ。物事を自分で決定し、実行するという意志の〈強さ〉が、そこにはある。それが生からの逃避であったとしても、そこには本人の強い想いがある。

 

 本当に弱い人ならば、自分の頭の中にその選択肢が浮かんだとしても、行動に移すことができないと思う。その結果、現れている社会問題のひとつが「過労死」なのでは。

 徹底的に働かせ、別の選択肢すら浮かばない状態に弱体化させられ、死に至る。個人の〈弱さ〉というよりは、外的要因が主な理由である気はするけれど……それはまた、別の話ですね。

 

 けれど、そんな自殺という選択肢を思い描き、実行に移してしまうのは、〈強さ〉や〈弱さ〉の問題よりもむしろ、様々な「タイミング」が合わさってしまったことに帰結するようにも思う。

 嫌な出来事が重なって、何も考えられず呆然と駅のホームを歩いていたところ、目の前に通過電車が見えて――といったように。本来ならば取るはずのない選択肢なのに、たまたま精神状態が最悪で、たまたますぐに死ねる環境が目の前にあって、たまたまそちらに引き寄せられて。そんな場合も、往々にしてあるのでは。

 

〈個人〉の意志で選択する「自死」

 「自殺」の問題を考えるときは決まって、自然とひとつの物語作品が思い浮かんでくる。無料で読むことのできるフリーゲームながら、複数言語に翻訳され、全世界で100万ダウンロードを記録しているサウンドノベル、『ナルキッソス』だ。

 

こちらはライトノベル版。原作に忠実だが、やはりゲーム版をおすすめしたい。

 

 ストーリーに関しては、Wikipediaの説明をざっと読んでもらえれば。

病院に入院してからの間に、あらゆる出来事に無関心となったセツミと、病院のホスピスとなっている「7階」に入ることになった主人公の話。

2005年冬。7階へやって来た主人公は、談話室で同じ7階に入院しているセツミと出会い、それからセツミとの会話ともつかないやり取りを繰り返す毎日を送る。 そしてある日、主人公は父が病室に置き忘れた車のキーを持ちだし、7階と自宅、どちらでも死にたくないと言うセツミと共に病院を抜け出し、あてもなく西へと車で向かうのだが……。

そしてある時、主人公の発案で水仙が咲き誇ることで有名だと言う淡路島へと行くことになる……。

 

 本作のテーマは、「死生観」「日常」。寿命ではなく、数年以内に確定した「死」に直面したとき、どのように日常を過ごすか。家族や周囲の人間との関係は。そして、「死」を“どこ”で迎えるか。

 

 社会問題として取り上げられる「自殺」の多くは、人間関係や日常生活に悩んでの、言わば〈社会〉という外的要因が問題とされがちだが、このような「自死」もある。病気という避けようのない自然現象に瀕したとき、自ら死にゆく人にどんな言葉をかければいいのか。“生きている”人にそれを止める権利があるのか。

 

 前の〈社会〉的な「自殺」にも明確な答えはないが、このような〈個人〉的な「自死」に関しても、絶対的な答えはないと思う。自分が見送る側、見送られる側、どちらになるかは分からないが、それはきっと、“その時”にならないと分からない。

 それでも、考えることだけはできる。実際に直面したときに自分の意志を貫ける保証はないけれど。本作を読んだのはもう5年は前になると思うが、このテーマに関しては、今も答えは出ていない。

 

〈社会〉によって現出する「自殺」

 翻って、〈社会〉の問題としての「自殺」について。自分の考えとしては、やはり「するべきではない」という気持ちが強いけれど、かと言って、ある人の生と選択に対して、他人の自分が偉そうに語れるものでもないとも思う。

 

 「自殺」は、それ自体がタブー視されるものでありながら、しかもものすごく多面的な問題を孕んでいる。人間関係だとか、経済状況だとか、日本社会の闇だとか、そんな一言で表せるものじゃない。〈社会〉の要因が大きいとしても、〈個人〉の精神性も関わってくるし、結局は前述の「タイミング」に行き着くようにも感じる。

 

 と、ここで、冒頭に書いた「読めていない本」が出てくるのだけれど。文庫サイズで500ページという超ボリュームなこともあってなかなか手を出せていない、デュルケームの『自殺論』です。

 

 

 「自殺という人間行為を社会構造および道徳的構造の特質との関係をさぐりながら――」と裏表紙に書かれているけれど、まだ読めていないので。

 そもそも本書を手にするきっかけとなった、小熊英二氏の『社会を変えるには』から引用させていただきます。曰く、自殺に3つの類型がある、と。

 

 

集団本位的自殺というのは、集団の縛りが厳しくて、しがらみの中で自殺してしまうものです。日本の切腹などがその例だそうです。

自己本位的自殺というのは、わがままで死ぬという意味ではありません。彼(※デュルケーム)によると、人間は「社会」とつながっていないと、エネルギーが切れて死にたくなってしまう。自我(エゴ)というものが宙に浮いてしまって、自殺してしまうわけです。いまふうにいうなら、メールがこなくて死にたくなる、といったところでしょうか。別にメールなんかこなくても、経済的に困るわけでもないのに、死にたくなったりするのは、「つながり」が絶たれたように感じるからです。

アノミー的自殺というのは、社会そのものが実体を失って、人間に指針を与えたりエネルギーを供給する能力が衰え、自殺がおきるというものです。みんなが「自由」になっていき、何を信じたらよいのかもわからず、誰もが他人に力を与えることもできなくなり、みんなが枯渇して自殺が増える、という状態を考えれば当たらずとも遠からずでしょうか。

 

 ここで主に問題とされるのは2番目、「自己本位的自殺かと。ちょうど昨日、記事にしたばかりの、『一〇年代文化論』で指摘されていた2つの事件の加害者の精神性は、これに近いものがあるんじゃないかと思う。

 

◆ 秋葉原事件

 掲示板で自分のコンプレックスを「ネタ」として面白おかしく提供し、交流していたが、荒らしによって自分の居場所を奪われ、キャラをも剥奪されてしまった。他人との交流を拒絶され、腹を立てた。

◆ 『黒子のバスケ』事件

 「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂」*2

 

 他にも生活や雇用問題の要素もあるだろうが、いずれも〈社会〉との「つながり」を感じられなくなったがゆえの凶行であり、両者とも「自殺」を仄めかしている。そこで自らの死を選ばず、周囲への犯行へ及んだことについては、また別の視点からの見解が必要になるのかもしれないけれど、「宙に浮いたエゴ」という明確な共通点はある。

 

 この〈社会〉によって現出する「自殺」に関しては、『自殺論』を読み終えた後にしっかりとまとめてみたいところ。とりあえずは、触れるのみに留めておきます。

 

ただ、話を聴くだけでいい

 自殺者を減らすため、少しでも多くの人を踏みとどまらせるために、いろいろな場所で多くの人が活動を続けている。政府もNPOも対策を練っている。実際のところ年々、自殺者数は減少傾向にあるらしいが、それでもまだ2万人超の人が毎年、自ら命を絶っている*3

 

 それを社会のせいだ、政府の努力不足だ、と転嫁するのは簡単だ。誰が死のうが、知ったことじゃない。けれど、僕らにとって「自殺」は思っている以上に身近な問題なのでは。全てがそうではないだろうけれど、人身事故なんかは日常的に起こっているものだ。

 

映画「自殺者1万人を救う戦い」を観て - ぐるりみち。

 

 先ほどの『ナルキッソス』も1、2時間ほどで読めるので、個人的にはおすすめしたいけれど、多くの人にまず観て欲しいのはこちら。

 昨年、あちこちで取り上げられていたので知っている人も多いかも。駐日欧州連合代表部の職員さんが、外国人の視点から日本人の「自殺」について問題提起した映画。無料公開。

 

 自分たちに何ができるか、何をすべきかと考えると、別に具体的にどうこうしようとする必要はないのかもしれない。ただ、僕らが見るべき、聴くべきは、もっと身近なところ。

 目を逸らさず、耳を塞がず、「つながり」を保ち続けること。そうすることで、安心している人がいるかもしれないし、もしかしたら、自分も救われているのかもしれない。たったそれだけで、実感できるものもある。