並行世界を扱った3冊の小説から見えてくる「比較」の功罪


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 “IF” の話はお好きですか?

 

 いつだって、いわゆる「ループもの*1の作品は一定の人気を博している印象がある。完全オリジナルアニメの『魔法少女まどか☆マギカ*2』、ゲームが原作の『STEINS;GATE*3』などはいずれも映画化されており、直近では、『メカクシティアクターズ*4』も同様のものだろう。え?エンドレスエイト?*5ななななんのことでしょうふふふふ。

 他方では同系統の作品群として、パラレルワールドを題材とした「並行世界もの」も挙げられる。ひとつの時間軸で歴史を繰り返すのではなく、複数の時間軸に枝分かれした、よく似ているけれど別の世界である「並行世界」が重要な意味を持ってくる作品――と言って問題はないかと。

 例えば、前述の『STEINS;GATE』においては、「世界線」という言葉がほぼ同義のものとして使われている。自分の見知った世界ではあるけれど、町並みやテクノロジー、人間関係などの節々が、微妙に異なっている世界。僕らが体験することは叶わないが、それはいったい、どんな感覚なんだろう。

 単純なタイムトラベルものと比較すると、パラレルワールドに焦点を当てた作品は思いのほか少ない。Wikipdiaのカテゴリーで項目数を参照してみても、結構な差がある。そんな「並行世界」を扱った小説を3冊、紹介しつつ、それらに見られる共通点と考えたことをまとめてみようと思います。

 

『ボトルネック』/米澤穂信

亡くなった恋人を追悼するため東尋坊を訪れていたぼくは、何かに誘われるように断崖から墜落した……はずだった。ところが気がつくと見慣れた金沢の街にいる。不可解な思いで自宅へ戻ったぼくを迎えたのは、見知らぬ「姉」。もしやここでは、ぼくは「生まれなかった」人間なのか。世界のすべてと折り合えず、自分に対して臆病。そんな「若さ」の影を描き切る、青春ミステリの金字塔。

 『インシテミル』『氷菓』 などでおなじみ、米澤穂信さんの作品。

 超絶鬱展開。鬱しかない。鬱まっしぐら。本作が指し示すのは、何よりも「比べること」の残酷さ。――もしも、自分が生まれていなかったら。その代わり、自分のいるべき場所に別の人物がいたら、世界はどう変わっていたのだろう。そんな、知りたくもない “IF” を突きつけられる。

 つまり本作は、自分の全存在を否定される物語でもある。もしハッピーエンドで終わるなら、「この世に不要な人間なんていない! 私には君が必要だ!」……なーんて劇的な展開があるのだろうけれど……きっと、この作品にそれはふさわしくない。

 

『五分後の世界』/村上龍

箱根でジョギングをしていたはずの小田桐はふと気がつくと、どこだか解らない場所を集団で行進していた。そこは5分のずれで現れた『もう一つの日本』だった。『もう一つの日本』は地下に建設され、人口はたった26万人に激減していたが、民族の誇りを失わず駐留している連合国軍を相手に第二次世界大戦終結後もゲリラ戦を繰り広げていた……。

 一言で言うなら「生々しい」。そして「痛い」

 場面描写がすごいとは聞いていたが、まったくその通りだった。ひとつの場面が段落もなく延々と書かれていれば読む気も失せようものだけれど、詳細かつ「生きた」描写表現は、読んでいて強く没入させられる。

 一方では、本作の舞台となっている「世界」との対比によって現実世界を批判したり皮肉ったりしている点は、読んでいてもそれなりに納得させられるものでおもしろい。

 欧米文化を取り入れ、何かを失いつつも発展した現在の日本と、多くの犠牲を払いつつも自分たちの誇りを守り、強くたくましく生きる5分後の日本。どちらが正しい、間違っているとは一概に言えないけれど……考えさせられる部分は多い作品なのではないかしら。

 

『クォンタム・ファミリーズ』/東浩紀

人生の折り返し、35歳を迎えたぼくに、いるはずのない未来の娘からメールが届いた。ぼくは娘に導かれ、新しい家族が待つ新しい人生に足を踏み入れるのだが……核家族を作れない「量子家族」が複数の世界を旅する奇妙な物語。ぼくたちはどこへ行き、どこへ帰ろうとしているのか。

 SFにも哲学にも量子論にも明るくない自分は、純粋な「物語」として最後まで読みきった。読後感は悪くない。むしろ、すっきりした。主人公が最後どうなるかについて薄々予感していたため驚きはなかったが、彼の至った結論は小気味の好いものだった。

 ただ、本作品で示される「並行世界」は、情報社会に生きる僕らにとっては特段に生々しいものであり、想像すると恐ろしい。

 見知らぬ他人の経験や、家族ではない家族の記憶、自分ではない架空の人生の記憶がすべて「じぶんのもの」として想起される、〈検索性同一性障害〉。「仮想世界による侵食」は、このような形ではなくとも、現実のものとして問題となってもまったくおかしくはない。

 

知っている世界と、知らない世界

 ――とまあ、たった3作品をもとにして、その共通点を考えるのもサンプル数が少なすぎる気もするけれど。それでも、これらの物語には明確にして残酷な共通点がある。

 それは、自分の知っている世界と知らない世界、双方を体験したことによる「比較」が、大きな要素として語られていることだ。これは、ほかの多くのパラレルワールド作品にも当てはまる要素であるはず。

 

 例えば『五分後の世界』では、現代日本とはまったく別の「日本」が描かれている。

 何もかも違う世界の中で、主人公だけが「平和な日本」を知っている状態。ただし彼は別世界に絶望することなく、その知らない世界をむしろ好意的に捉え、住人を目にして思わず涙を流しそうになり、尊敬の念を抱き、最後にはそこで生きていくことを決意する。

 見方によっては戦争を賛美しているように映るかもしれないが、僕はあまりそのような印象は受けなかった。同じ「日本」でありながら、まったくの別世界という視点を読者に提供することで、既存の価値観を揺さぶろうとする狙いがあったんじゃないかと思う。

 

 一方、『ボトルネック』の世界は酷い。何がむごいって、元の世界とほとんど同じ景色のなかにありながら、ただ一点、「自分だけがいない」という違い “だけ” がもたらされていること。違うのはそれだけなのに、その “違い” がとてつもなく残酷に感じられる。

 歴史そのものが変わってしまっている『五分後の世界』ならば、まだ納得することもできるかもしれない。しかし、『ボトルネック』はただひとつだけが異なっているために、「自分」の異物感がとんでもなく協調されてしまっている。精神的な絶望感としては、『五分後』以上のものなんじゃないかと……。

 

 そして、『クォンタム・ファミリーズ』。これもまた、『ボトルネック』と同様の「気持ち悪さ」がある。物語中で問題となる〈検索性同一性障害〉は一口に言えば、ありえたかもしれない可能世界と接続され、「脳内に並行世界の情報が流れこんでくる病」だ。

 自分が知らないはずの人を知っていたり、知っているはずの人を知らなかったり。家族関係も交友関係もぐちゃぐちゃ。馴染みのある世界の中で、気づかないうちに「知らない」が「知っている」になっている薄気味悪さ。これもまた、自身の存在の “不確かさ” が色濃く現れてくるものだと言える。

 

似たもの同士を「比較」する残酷さ

 こうして見ると、『ボトルネック』と『クォンタム・ファミリーズ』は、「比較」がもたらす残酷さを強調し、ある種のメッセージとして読者に提示しているようにも感じた。

 前者は「自分という存在」そのものを、後者は「自身の記憶」を比較対象として、そのギャップが強く示される。何よりも身近な「自分」という存在の異質さをまざまざと見せつけられることの絶望感は、半端なものではないと思う。

 

 そう考えてみると、僕らが日常的に行なっている「比較」という行為も、非常に残酷なものなのかもしれない。特に、身近な関係性を持つ人間同士、似たもの同士を比べることなんかは。

 兄弟がいる人のなかには、比べられて育ったことで、複雑な感情を抱いている人も少なくないと思う。自分と比べて兄弟が優秀だった場合は、「どうしてお兄ちゃんみたいにできないの!」とか、「妹は優秀なのに、上の子は手がかかってしょうがない」とか。マジで凹むやつだ……。

 

 もし、比べられる対象と絶対的な実力差でもあれば、そんなに落ち込むことはないかもしれない。熱血スポーツマンの父親に、「どうしてお前は野球が全然うまくならないんだ!イチローはあんなにすごいのに!」なんて言われても、あまり気にはならないと思う。だって、イチローだし。

 『五分後の世界』で主人公が前向きに生きていこうと思えたのは、飛ばされた世界の持つ危機的状況や、そこで見た人間の精神性に感化されたことも理由にあるだろう。でも同時に、そこが自分のよく知る世界とは明らかに異なっている場所であるということも、前向きでいられた一因となっているのではないかと思う。

 

 どうしようもない大きな違い、誰が見ても明らかな違いは、「別物なんだからしょうがない」と納得しやすい。 “諦められる” と言い換えてもいい。それは、操作方法は同じだが、まったく別のゲームを新たにプレイしはじめる感覚に似ている。それはそれ、これはこれ。

 ところが、どう見ても同じ、あるいは似ているものなのに、一部分だけ変わっていれば話は別だ。どうしてもその “変わる前” の部分に目がいってしまって、強調され、比べて考えてしまう。あるゲームをプレイしていたら、急に操作方法 “だけ” が変わったような。急にAボタンでジャンプできなくなったら、そりゃあ焦る。

 

 大きな変化ならば、受け入れられる。受け入れざるをえない。しかし、何かがちょっとだけ変わって、それがあまりよくない変化だった場合は、どうしてもそれが気になってしまう。

 そして、それがもし “自分だけ” にもたらされたものだったら。周りは何も変わっていないのに、自分だけが別物になってしまったがゆえの孤立感。そのように世界から存在を否定されてしまえば、それは人を絶望の淵へ突き落とすのに十分なものだと思う。鬱だ氏のう。

 

何かを知り、理解するための「比較」

 とは言え、見方を変えれば「比較」は、あるモノについて別視点から眺めることで一種の「気付き」をもたらしてくれるものでもある。『五分後の世界』が、まさにそうだ。

 前述のように『五分後』では、現代日本とは全く別の「もうひとつの日本」が描かれている。他の2作品では個人が一種の「異物」として強調されているが、こちらではほぼすべてが「別」のもの。なので、その “5分ずれただけ” の世界同士の明らかな差異を描くことで、現代日本を批判したり皮肉ったりしているような表現がちらほらと見られ、読んでいておもしろい。

 

言わせていただくとか説明させていただくとかいったい誰が使い始めたんだ、そういう妙な日本語は禁止せよ、貴様は誰かに許可を得たり誰かに依頼されて話しているのか?自分の意志と責任で話しているのだろう?言います、説明します、で十分ではないか。

放っといてくれっていってもだめなんだ、自分のことを自分で決めて自分でやろうとすると、よってたかって文句を言われる、みんなの共通の目的は金しかねえが、誰も何を買えばいいのかしらねえのさ、だからみんなが買うものを買う、みんなが欲しがるものをほしがる、大人達がそうだから子供や若い連中は半分以上気が狂っちまってるんだよ、いつも吐き気がしてあたりまえの世の中なのに、吐くな、自分の腹に戻せって言われるんだから、頭がおかしくなるのが普通なんだよ。

 

 言うなれば、「比較」という行為には、その存在だけで完結していたものに対して別個の存在をぶつけることによって、「当たり前」だった価値観をぶち壊す効果がある。それまで絶対的だった考え方について、「こんなのもあるよ?」と提示してくれるもの。

 ペリーが来なければ、海外国家の先進性は知り得なかったし、実際に海外旅行にでも行かなければ、日本の治安の良さは実感できない。別世界を知り、既存の価値観と比較検討することは、自分の知る世界をより深く理解するという点で有意義なものだと思う。

 

 そのような意味では、たとえそれが架空の世界であっても、「もし」「たら」「れば」を想像することは、まったくの無意味であるとも言い切れない。

 「こんな世界になれば」「あんな便利な道具があったら」。技術の進歩は、そんな想像によって培われてきた側面もあるのではないかしら。

 現実的にはありえないことでも、物語のなかでならいくらでもそんな空想に浸ることができる。仮想世界に没入しすぎるのもよろしくはないとも思うけれど、あるかもしれない並行宇宙を思い描き、自分の世界と比較して楽しむのも良いかもしれない。

 

 もちろん、リアルに絶望しすぎない程度に。

 

 

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