ぐるりみち。

平成生まれのフリーライターのブログ。本・映画・マンガ・アニメの各種レビューに、旅行・グルメ・街歩き日記など。

キャラを演じる「自分」も含めた、“ありのまま”の現在を受け入れる

「自分が無い」と感じることについて - ゆーすとの日記(※削除済)

 

 読みました。自意識、自我についての話。ちょうど最近、関係のありそうな本をいくつか読んでいたこともあり、自分なりに考えて突っ込ませていただきます。「れりごー♪れりごー♪」って聞こえてきそう。

 

「自分が無い」と感じている「自分」がいる

僕には“自分”が無いのかもしれない、と感じることがたまにある。きっかけは大抵ささいなことなんだけど、あなたはどう思う?どうしたい?と訊かれたときなんかにとっさに答えが出ずウッと詰まり、とりあえず周りの意見なんかを参考にしている自分に対し「あー僕には自分が無いんだろうか」なんて考えるのだ。

 

 冒頭の記事では、このように書かれています。これは僕自身も経験のあることであり、かなり共感できる内容でもある。咄嗟に考えが思い浮かばず、周囲の意見を聞いて、最も納得のいく人の主張に「そ、それや!僕もそんな感じ!」と乗っかってしまう感じ。乗るしかない、そのビッグウェーブに。

 しかし、自分の意見がない=自分が無い、とは言い切れないと思う。そこには「意見を持った自分が無い」んじゃなくて、「周囲に同調している自分がいる」だけなのではないかしら。

 

何を感じるにしても考えるにしても対象が必要なわけで、その対象についてはぼんやりとした考え方や感じ方しかできないというだけのことだ。人それぞれに興味あるものごとと、ないものごととがある。全てに対して何かしら意見があるわけじゃない。何を聞かれてもきちんと答えられる方がそもそもおかしい。

「本当の自分」なんてそもそもないんだよ - grshbの日記(※削除済)

 

 対してこちらでも言及されているように、人の興味関心は千差万別。全てに対して答えを持つ必要はなく、分からなければ周囲に頼ればいいし、「しーらんぺっ!」と考えを放棄するのもひとつの選択だ。

 それはそれで、“他人に委任する”、もしくは、“放棄する”という「自分の意志」を示したことになるので、別段に責められるようなことではない。もちろん、その場において自分が重要な役割を持っている場合など、環境にも左右されるものではあるけれど。

 

 また、自分にとって興味関心のある分野について、その意見を提示できなかった場合も、そこには「主張のできない自分」がいるだけ。

 自分の好きなものに関して、他人に乗っからざるをえない状況は、悔しさや情けなさを伴うものかもしれない。でも、その事実がある以上はどうしようもないもので、受け入れざるをえない。それもまた、「自分」なのだと。

 

圧倒的な客観(ありのまま)に、目を見開いていくという方向性。良い意味で諦めてゆくことにより、「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」という無益な思考から、自由になる。

究極の自己肯定は、肯定も否定もしないこと(『“ありのまま”の自分に気づく』を読んで) - ぐるりみち。

 

 こちらは「自己承認」云々の話なので、少し意味合いが異なってくる。とは言え、自分の有り様について悩んだとき、困ったとき、“ありのまま”を認めるという作業は、心に余裕を持たせる手助けとなりうるはずだ。

 

「自己分析」という自分探し

 「自分」とは何ぞや、と自ら問いただそうとするのなら、「自己分析」がひとつの手段として挙げられる。冒頭の記事でも「歴史を紐解く」と書かれているように、現在の自分を知るには、過去を再確認するのが手っ取り早い。

 ところがどっこい。就職活動でも勧められ、僕自身もたびたびブログでおすすめしている「自己分析」ですが、とんでもなくかったるい作業だし、ぶっちゃけ、効果が認められるかも怪しいシロモノだ。

 なぜって?そりゃあ奥さん、現在の自分もそうだけど、過去なんてとんでもなく曖昧なものじゃないっすか。

 

 過去の経験は、得てして美化されがちだ。定期的に「昔は良かった」なんて語りだすおっさんが現れるのも、その証。本当は嫌なことも苦しいこともたくさんあったはずなのに、僕らは過去を懐かしみ、「あの頃」を饒舌に語る。

 当時の日記や記録が残っているならば、話は別だ*1。しかし、現在の自分が思い返す過去は、「想像」の割合が一定部分を占める、非常に曖昧なものだ。さらに、そこで抱いた感情を思い出そうとすれば、それはもうほとんど「妄想」の類なんじゃないかと。

 

 とは言え、それらの前提を受け入れつつ、嫌な思い出や黒歴史を汚物塗れになりながら掘り返し、それをなるべく第三者視点で見つめなおすことができるのならば、確かに自己分析は効果の認められるものだとも思う*2

 広い視点で見れば、過去の自分と現在の自分は、全くの別人であると断言できる。昔も今も同じ環境、同じ人間関係の中で暮らし続けているのなら、双方は限りなく近い存在だとは思うが、なかなかそんな状況にはいられない。ネバーランドへ行きたい。

 でも一方で、現在の自分を形作っているのも、紛れも無く過去の自分であり、その事実は揺らがない。ならば、過去の何百、何千人の自分を再認識し、現在の自分との比較検討を繰り返していけば、最終的にはその本質、「自分」という存在に昇華するはずだ。完全に、とは言えなくとも、その近くまで至ることはできると思う。

 

常に3人の「自分」と「自分たち」がいる

 しかし、「自分」とは、何も自身の認識のみによるものではない。社会の中で「自分」という存在を認識しようとすれば、そこにはそれぞれ異なった定義による「3人の自分」がいるんじゃないだろうか。

 1人目は、自分自身の認識する「自分」。
 2人目は、社会や環境の規定する「自分たち」。
 3人目は、他者が認識する「自分たち」。

 これら3種類に分けられた「自分」は、同様の固有名称を持った「個人」であると同時に、それぞれ異なった認識のもとに存在している、別の存在でもある。……って、どういうこっちゃねん。

 

1. 自分自身の認識する「自分」

 これは単純な話。これまでに書いてきた「自分」。
 「私」や「僕」が認識し、生活の中で操作している、一人称の自分自身。

 自身のことなのだから、本来ならば「俺は俺だ!それ以外の何者でもねぇ!」と悩むこともないはず。しかし、そこに周囲から様々な「枠」が押し付けられるため、「あれ?俺って……なんぞ?」と困ったことになる。

 では、その周囲からもたらされる「枠」とは何だろう。

 

2. 社会や環境の規定する「自分たち」

 それが、2人目の「自分」。社会や環境、あるいは、コミュニティやグループなど、外的環境という「枠」が規定、定義している「自分」のことだ。

 具体的に言うと、例えば、「◯◯会社の従業員の自分」とか、「△△サークルに所属している自分」とか。範囲を広くすれば、「◇◇市民の自分」「日本人の自分」など。集団によって内容は異なってくるため、何種類にも規定された「自分」がいるという意味で、「自分たち」という表現にした。

 

 社会やコミュニティに属している僕らは、その場におけるルールやマナーを守って行動することを強いられ、ある時には、そこでの役割を果たすようにも求められる。

 それらの社会の枠組みによって規定された肩書きは、自分の社会的地位を約束するものであり、ある程度の安心感を与えてくれる。それを自分の認識する「自分」とすることもできる、分かりやすい基準。マズローの欲求段階説で言えば、ピラミッドの中層に位置するものだ。

 

 しかし一方で、周囲から一方的に決めつけられる「レッテル」も、同様のものだ。人種や、特殊な趣味嗜好、性的マイノリティなど、自分にとっては当たり前のものであっても、社会的に「良くないもの」と認識されれば、差別の対象となる。

 さらに、たとえ自分が「そうではない」と否定したところで、外部環境によって決めつけられ、多数派によって承認されてしまえば、抗うことも難しい。

 ゆえに、外部環境によって規定された「自分」は、自身に安心をもたらすものでありながら、時には牙を向くものだ。それは、良くも悪くも、問答無用で自らを縛る枷と言えるだろう。

 

3. 他者が認識する「自分たち」

 そして、最も細分化された「自分」が、他者の認識によるもの。外部環境による基準とは別に、相対する全ての個人が、自分(私)に関して持っている認識。つまり、「人から見た自分」のことだ。

 これは、全くもって自分からは知りようもない、周囲の人間、個人個人が、ばらばらに持っている「自分(私)」に対する印象なので、どうこうしようというのは難しい。

 

「人から見た自分」だけが肥大して、「自分が思う自分」は相対的にどんどん小さくなる。

 

 ネット社会と照らしあわせて、冒頭の記事ではこう書かれていますが、まったく仰るとおりだと思います。だからこそ、そんな「自分」のギャップに苦しんでいる人が、たくさんいるんじゃないだろうか。

 

周囲が生み出す「空気」に支配された「自分」

 一口に「自分」と言っても、どこにいるか、誰が見るか、どのように感じるかによって、全く見え方が違ってくる。言うなれば、自分を含めた世界の総人口分の「自分」が存在していると表現してもいい。

 社会の中で生きる僕らは、周囲が様々な「自分」を押し付けてくることで、時に「俺はこういう人間だ!」とそれに反抗し、時に「はいはい、分かりましたよ」と従属する。

 そして、その中でうまく立ち回ろうとするため、望まれる役割を「演じる」ことがひとつの処世術たりえている。日常的に「キャラを演じる」こと。それこそが、「自分が無い」と感じる大きな要因なんじゃないだろうか。

 

いじられキャラ、毒舌キャラ、おたくキャラ、天然キャラ、などなど数多くの「キャラ」が存在するが、必ずしもそれが本人の性格と一致するわけではない。「キャラ」は本質とは無関係な役割であり、ある人間関係やグループ内において、その個人の立ち位置を示す座標を意味する。

コミュニケーション偏重主義が生み出す「承認欲求」(『承認をめぐる病』を読んで) - ぐるりみち。

 

 で、そんな「キャラ」を演じることに慣れすぎると、自我とアイデンティティの喪失に繋がる。実際は、それを自分のアイデンティティと言ってもいいはずなのに、周囲に合わせるだけの自分に嫌気がさし、「本当の自分」を探し始めてしまう。はい、私です。

 「本当の自分」なんて、本来的には存在しないのだと思う。そこにいるのは、周囲が生み出す「空気」に支配された「自分」、それだけだ。

 流されているだけかもしれない。自身の求めるものではないかもしれない。しかし、それを受け入れるという選択を選んだのも、やっぱり「自分」なわけで。そして、その諦観に塗れた「自分」ですら、時の流れの中で変化し続け、同じ存在ではいられない。

 

 現状に抗い、変化や成長を求めるのも悪くはない。前向きな人間はかっこいい。けれど、人はそんな簡単に変われるものではないとも思う。どうせ「本当の自分」なんていないんだし、何もせずとも人は変化を続ける生き物なのだから、それならば、流れに身を任せるのも一興なんじゃないかしら。

 しかし、今、ここにいる、現在の「自分」を認められないのなら、きっと未来の自分も認められることはできないだろう。いつになっても、理想の「自分」を夢見るばかりで、悩み続けるだけ。そして、「昔は良かった」と甘美なノスタルジーに浸ることになる。

 

 だから、まずは何よりも、「今」を認めなければ話にならない。やりたいことも見つからず、周囲に流されるだけの就活生。日々の生活に精一杯で、上司に従うだけの社畜。全てにうんざりし、ただ無為に過ごす無職。

 そんな、どうしようもない「自分」を再認識した上で、“ありのまま”を受け入れること。自ら変わろうとするにせよ、自然に成り行き任せに生きるにせよ、「現在」を認めないことには、未来永劫、何も得ることはできない。

 

 なりたい自分になれるなら、そもそもこんな俺になってない。

 変われ、変わる、変わらなきゃ、変わった。

 噓ばかりだ。

 今の自分が間違っていると、どうしてそんなにも簡単に受け入れられるんだ。なんで過去の自分を否定するんだ。どうして今の自分を認めてやれないんだ。なんで未来の自分なら信じることができるんだ。

 昔、最低だった自分を、今どん底の自分を認められないで、いったいいつ誰を認めることができるんだ。今の自分を、今までの自分を否定してきて、これからの自分を肯定することなんてできるのか。

(中略)

 どうして、変わらなくていいと、そのままの自分でいていいと、そう言ってやれないんだ。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』6巻

 

 いま、ここに、自分が在る。ただ、それだけ。

 

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*1:だから僕は、ライフログは大切だと思います!ブログやろうぜ!

*2:この「第三者視点」がまた難しいけれど。