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「自分」って何者?「わたし」や「あなた」は誰にも定義できない

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photo by marttj

 

 「あなたはどんな人なのか教えてください」 

 

 就職活動において、面接官からこのように問われることがある。文字通りに受け取れば、この問いに答えることは難しい。弱冠22歳にして、「俺はこんな人間だ!」と断言できる人が、どれだけいるのだろう。

 自分を完全に客観視することなんて不可能だし、考えることも、感じることも、時と場合によって全く異なってくる。常に「こうだ!」というパターンのもと、画一化された行動をする……って、それはプログラミングされたロボットなんじゃないだろうか。

 

 もちろん、この質問が、そんなことを問うているのではないのはわかる。相手企業・面接官によって見ているポイントは異なるだろうけれど、「あなたは自分をどのように認識しているか」とか、そんなところだろう*1

 それは、自分に自分で属性を付与する作業。熱血漢とか、冷静沈着とか、几帳面とか、優柔不断とか。ツンデレとか、ヘタレとか、受けとか攻めとか――アニメや漫画におけるキャラクターの属性と、なんら変わりはない。

 

 それは表面的なもの、暫定的なものであって、「これが私だ!」と断言できるものではない。そもそも、時の流れの中で、感情も思考も気分も常に変化し続けている一人の個人について、明確な定義なんてできるんだろうか。

 

 

血液型占いと、モノの見方

 例えば、どっかの誰かが、「俺はイケメンで、しかも成績優秀で運動神経も抜群、リーダーシップも発揮する、完璧超人だ!」なんて言ったところで、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」*2と一刀両断されて終了だ。

 たとえ、本当に彼がそんな高スペックの持ち主だとしても、万人にとってそれが真実であるとは限らない。

 

 イケメン、つまり容姿、美醜なんてものは、個人個人の価値観によって変わってくるものだし、明確な基準のありそうな勉学や身体の能力だって、「田舎の◯◯学校では」という接頭語が付けば、一部に限定されるものとなってしまう。

 もし、全人類の能力を比較して、確かに彼がナンバーワンだったとしても、宇宙規模で見ればそんなことはないかもしれない。ナメック星が存在しないとは限らないし、地球上にだって、ミュータントや超能力者のような、力を隠した超人がいたっておかしくはない。

 外見や、測定可能な能力はもちろんだけれど、性格やその人の特性に関しては、さらに定義が難しい。上に挙げた「熱血漢」「几帳面」もそうだし、「優しい」「頼りになる」などの表現も同様だ。

 

 ここで、おなじみの「血液型占い」を例に出せばわかりやすくなる。

 

 それぞれの血液型について、その特徴をまとめて「あるあるー!」と楽しむものだけれど、A型の人に「これがA型の特徴だよ」と言って、B型の特徴とされているものを示しても、「あるあるー!」と納得してしまうという話。

 几帳面と言われるA型の人だって、B型の特徴だとされているマイペースさは持ち合わせている。逆もまた然り。誰しも、几帳面で、マイペースで、大雑把で、天才肌な要素はどこかしらに持ち合わせているもの。

 とりあえず特徴を羅列しておけば、それを読んだ人が、「ああ、確かに本棚は几帳面に並べないと気が済まないな(部屋の掃除は大雑把)」とか、「私は人を動かすことに長けている、天才肌と言えるだろう(自分の気が乗るときにしかやらないマイペース)」とか、都合の良いように解釈してしまう。ちょろい。

 

 ゆえに、個人の特徴を「こうだ!」とはっきり定義するのは不可能だ。「中学2年生の夏の部活発表会の練習3日目ではリーダーシップを発揮しました!」みたいに、時と状況を指定すれば、その限りではないけれど。

 

「高卒はバカ」「在日外国人は犯罪者予備軍」

 ここまでの内容は、「そんな細かいことを言って何の意味があるんだ……」と突っ込まれかねないもの。そんなん気にしてちゃ、何も話すことはできないし、誰の言葉も信じられない。ちょっとした言葉遊びのつもりです。

 ただ、それとまた他方では、ウェブ上でたまに目に入ってくる発言を見ていると、何の根拠もなしに「◯◯は◇◇だ!」と決めつけ、罵詈雑言をぶち撒けている人が散見されて、辟易させられることもある。

 

 例としては、「高卒はバカだ」という物言い。根拠もなく「高卒」を全て一括りにして、見下している感じが、いけ好かない。ばばばばかって言う方がばかなんだぞぅ!

 さすがに最近は耳にすることも少なくなったけれど、学歴を絶対的なものとして崇め奉っている層は、今なお、少なからず存在しているんじゃないかと。少し考えれば、そんなの勝手な思い込みだってわかるものだと思うけれど。今はお金さえ出せば大学に入れるらしいし、世の大学生が全員、全力で勉学に励んでいるとも思え……ゲフンゲフン

 

 あとは、特定の集団や国民を指して、侮蔑的な表現で罵る言説。こちらも、もはや突っ込むまでもないとは思うけれど、いまだ見かけるので。

 「高卒はバカ」と同じく、どうして何の疑いもなく、大きな集団を一括りに主語にして、まとめて「こうだ!」と言えるのかがわからない。気に食わない人間は全て、ネガティブなフィルターを通してしか見ることができないのかしら。そもそも、実際にその国の人と会って話をしたことがあるのかすら怪しい。

 

個人を定義することはできるの?

 実際、ある一人の人間を明確に定義することができるかどうかというと……どうでしょう。前述のように、時や場合を限定すれば可能だけれど、常に人は変化し続けているものであり、明確なものとは言えない。

 

 じゃあ、既にこの世にはいない人はどうだろう。過去の偉人とか、作家とか、画家とか。学問や芸術のジャンルに関わらず、昔から研究は続けられているし、それとなく定義はできていると言えるのかもしれない。

 しかし、それも残された資料や、彼らの周囲の人間の証言によるもの。その傾向や思想、もしくは作家や芸術家であれば、その作品とリンクさせることでそれなりの成果は期待できるかもしれないが、それにも限界があるように思う。

 

 結局のところ、ある個人を定義することができるのは、その人自身だけ。それも、自分自身が死に至る直前、ようやく知り至るものなのかもしれない。

 人生の意味を見つけるのが人生、みたいな言葉があったような気がするが、そんな感じ。人生は、その人が最期の瞬間に、「私はこういう人間だったんだな」と理解し定義することで、ようやくその意味が生まれるのかも。……これもまた、一種の言葉遊びですが。

 

 ただ、それすらも自身が考える「自分の定義」でしかないので、周囲からの視点が不足している。だから僕は、もし神様という存在がいて、何かひとつをお願いすることができるのなら、死んだ瞬間、もしくはその後に、人生の総復習をする機会を頼みたい。

 「自分」という人間の一生をひと通り見直して、個々の出来事や考えたこと、感じたこと、自身がとった行動を分析して、自らを定義してみたい。人の一生を再度、追いかけつつ、分析しようとすれば、とんでもない時間がかかりそうな気はするけれど。でもほら、死後の世界があるとしたら、そこは常時、精神と時の部屋みたいなところっしょ。たぶん。

 

 友達が話していたけれど、この人生そのものがゲームだとしたら、それもおもしろそうだ。僕であれば、今は「けいろー」という人格の生を体感している途上。死んだ瞬間、カプセルが開いて目覚めるとか、後頭部に刺さっていたプラグが抜けるとか。

 そうであるとすれば、今、この瞬間も含めて、「自分」という人間の定義を確認している真っ最中だとも言える。結構なクソゲーだけど、なんだかんだでそこそこ良ゲー。

 

 全てが終わるまでは、その定義を定めることは難しい。でもたまに、「自分ってどんな人間なの?」と、現時点での定義を確認しようとする行為は、割と有意義なんじゃないかと思う。

 未来の方向性を見定めるため、現在を再検討するため、「自分」を考えてみるのは、決して無駄な行為ではない。そうしたことで何が変わるとも言い切れないけれど、人生、長い暇つぶしと考えりゃ、それもまた一興でございます。 

 

 

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*1:単純に、「自己PRを始めてください」の合図である場合が、一番多いような気もする。

*2:お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではなとは - ニコニコ大百科