ぐるりみち。

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年度末、肩書きを捨てた無職が思うこと。

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photo by Ulf Bodin

 

 

 読みました。ここ数日ほど、諸々のやる気が落ちていた中で、ビビっときました。なんか書けそうな気がするので、思うまま、書き連ねてみようと思います。夜中のテンションなので、ちょっとごちゃごちゃするかも。

 

 

流れる時間の境界線

 僕らの生活、その時間軸を考えたとき。最も身近で明確に変化のある区分、境界線と言えば、「日」だと思う。「1日」で1単位。細分化すれば、午前午後、時間、分、秒——などともっと細かく分けられるけれど、それらは劇的な変化を感じる区分とは言えない。

 

 その点、1日の終わりと始まりは、外的(=環境)にも、内的(=自分の身体)にも、明らかな変化をもたらすものだ。

 1日の終わりは、眠ること。始まりは、目覚めること。眠ることによって意識の断絶が起こり、記憶の整理が行われるため、昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分は、明確には異なった存在と言っても差し支えはないんじゃないかしら。

 

 眠りの深さによって体調や気分は左右されるし、外の天気によってもそれらは変わり得る。眠りは、僕らの心と身体をリセットする。眠る前と後で変化が現れるという点で、「日」は、身近な時間の境界線だと思う。

 

日、週、月、年

 人の定めた単位で考えると、「日」の上には「週」「月」「年」が続いていく。その間には「季節」もあり、日本人は特にその変化・情緒を大切にするとも言われる。が、それは緩やかな自然の変化の中で現出してくるものであって、ここだ!という境界線は引きづらい。

 

 1年の終わりと始まり、12月と1月は言うまでもなく、多くの人にとっての太い境界線となっている。日本ならば、年の暮れには身の回りを整え、1年の穢れを祓い、鐘を突く。年が明ければ新年の息災を祈り、抱負を語り、めでたいものを食す。

 日本に限らず、「1年」の区切りは多くの国の人々にとっての一大イベント。実際には、「1日」の連続のうちのひとつでしかないけれど、そこに大きな意味を持たせ、社会で共有することによって、極太の境界線として毎年必ず存在し、飛び越えるものとなっている。

 

3月と4月の境界線

 ではでは。3月と4月。日本における年度末と年度初め。その意味はなんだろう。

 

 昔から伝統的に続けられている、年始年末の風習である12月と1月の境界線に対して、こちらは近現代に社会によって規定された、一種のルール的な様相を持つ境界線。そう言われると大したものではないような気もするけど、ところがどっこい。こいつは極太でっせ。

 この時期は、学生、社会人に関係なく、環境の大きな変化が起こりうるものだ。学生なら卒業と入学、サラリーマンなら異動。学校にせよ会社にせよ、何らかの組織に属していれば、全く別の場所・環境に移り、それまでとは異なる、新生活が始まる可能性を誰もが持っている。

 

 ちなみに、無職の僕ちゃんには無関係な気がしてたけど、そんなことはなかったぜ!

 

 年度が変わるということは、企業や行政の方針変更があるということ。新商品が多く出れば、それを買う買わないで生活に変化があるかもしれないし、商品リニューアル、価格変更なんてことも考えられる。

 特に今年は、消費税増税という行政のビッグイベントがあるため、否が応でも、極太の境界線を意識させられざるをえない。まあだからと言って、特に何をするつもりもありませんがね! うふふ!

 

 そんなわけで、この時期。3月と4月の境界には、「環境の変化」という極太の境界線がござる模様。自身に直接的に関わりがなくとも、周囲が変われば、自分も変わる。友達の引っ越しを手伝うことで、一時的に会社員時代の筋肉が復活しました。うむ、変化。

 

肩書きの喪失、変化の中途、曖昧だからできること

 おそらく、多くの学校では、遅くとも今週末までには卒業式を終えるのかな?企業では、異動・転属の準備が着々と進められている頃だと思う。つまり、これから4月を迎えるまでのおよそ10日間は、ひっじょーに曖昧でふわふわした時期だと言える。

 

 冒頭の記事でも、ヤユキ(id:Ya-Yuki)さんは次のように書いている。

学生という肩書きを失っている今、なんとなく社会のリスクにさらされている気がして少なからず不安を覚えるし、またこれまでと同じ振る舞いをすることは出来ないと思うのだ。

肩書きは人の行動を左右する大きな力を持っていると思うのである。

 

 「肩書き」の力は大きい。組織に属すること、学生や会社員といった肩書きを保持することによって、僕らは社会から認知され、生かされていると言っても過言ではない。

 しかし一方で、肩書きはその人の行動を規定するものでもある。学生は学生「らしく」振る舞うよう指導され、社会人は社会人「らしく」在ることを強いられる。少しでもそこからはみ出そうものなら、「変なことをするな」と矯正される。社会の一員としての肩書きを背負う以上、普段の振る舞いはお互いに監視し合い、逸脱した行動はマジョリティによって否定されがちだ。

 

 と、いうことは、逆に考えれば、変化の中途であるこの時期だから、肩書きが曖昧な今だからこそ、できること、挑戦できることもあるんじゃないかしら。会社員は、転職の予定でもない限り難しいかもしれないけれど、学生ならば、春休みは自由が利くはずだ。

 

 普段は行かないようなところ、ちょろっと小旅行に行くのもいいし、普段は会わないような人と会って話をするのもいいかもしれない。

 まだ新生活の始まっていない、肩書きが変化しきっていない曖昧な今だからこそ、ちょっとしたチャレンジによって、自分を何にでも変えることができるんじゃないだろうか。もちろん、よくお上が仰るように、「羽目は外さない程度に」

 

 そう考えると、曖昧であるということは、何にでもなれるということ。曖昧は自由。そう、無職は自由。ひゃっはー!無職ばんざーい!!……とも言い切れない。社会的な肩書きのない僕らは、舗装された道の上ではなく、常にぐらぐら揺れる吊り橋の上を進もうと、恐る恐る試行錯誤しているようなものだ。

 でも言い換えれば、どんな道を進んでもいいということでもある。学生専用道、会社員専用道ではなく、砂利道を進んでもいいし、ジャングルを突っ切ろうとしてもいい。橋を飛び降りるのは……ちょっと待ってね。

 

 「無職」という名の肩書きは、重い。

 

 まるで某リ◯ルートのCMみたいな例えだけど、「曖昧である」ということは、きっとそういうことなんだろう。考えてみれば、「大学4年生」という立ち位置は、1年を通して曖昧で、だからこそ辛い状態なのかもしれない。

 

 「曖昧である」ということは、まだ「何者」にもなりきれていないということ。肩書きを持たず、この先、どうなるかは未知数、分からない。

 「何者」でもない、曖昧な「自分」をしっかりと意識した上で、できること、やりたいことをやって、自らの内に落とし込んでいく。そうして、自分の糧とする。曖昧な時期にできるのは、そんなことじゃないかな。

 

 

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