ぐるりみち。

平成生まれのフリーライターのブログ。本・映画・マンガ・アニメの各種レビューに、旅行・グルメ・街歩き日記など。

自分の「好き」を主張するために、他を貶めないようにしたい

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photo by dkalo

 比較論でしかモノを語れないのは、もったいないことだと思う。

 

 例えば、自分の好きな映画やアニメ、音楽について。他人にその魅力を伝えようとするとき、僕らはどのようにその「好き」を表現するだろうか。

 感情的に、大げさな身振り手振りを伴って、相手の感覚に訴えかけるのも良い。自分にとって特に魅力的な点、印象の強い点、心を動かされた点に絞って、その理由を詳細と共に話すのも良い。演出や作画、人選など、個々の要素の優れた点を挙げて説明するのも良い。

 

 その一方で、そのモノの魅力を語るため、他との比較によって優位性を証明しようとする人もいる。売上など、視覚化されたデータを持ってきて比較するならまだ分かる*1

 けれど、別の具体例を挙げて、それを貶めることで、自分の勧めるモノを高い位置に保とうとする行為。それは果たして、妥当な手段なのだろうか。もし相手が、貶められたモノのファンだったら、相手にもその作品にも反感を持ってしまうだろうし、あまり良い気分にはなれないと思う。

 

 以前も似たような記事を書いたけれど、人が「好き」を語ることについて、もうちょい踏み込んで考えてみたい。

 

他人に「好き」を伝えるのは難しい

 他人に対して、その人が知らないモノを勧めるのは難しい。少しでもそのモノに関する知識を持っていれば、まだやりやすいが、全く何も知らない場合は、一からその魅力を説明しなければならないからだ。

 しかも、自分がそのモノを好きであればあるほど、自分にとってはそれが当たり前のことであり、改めて言葉にしようとすると……悩んでしまうことがある。「サッカー」を見たことも聞いたこともない人に、その魅力も含めて、全てを説明するのは骨が折れる。

 

 ゆえに、僕らはしばしば感情を伴って、少しでもその魅力が伝わるように努力する。「すげえ」とか「ぱねえ」と言うだけでは、相手も「お、おう……」と曖昧な反応しかできない。

 が、「あれがこうでギュイイイイン! ってなって超すげえんだよ! CG映像がむちゃくちゃ動きまくっていて……」みたいに、擬音と具体的な内容を興奮気味に話せば、「ああ…なんかよく分からんけどすごかったんだな……」くらいは、まあそれとなく伝わる。

 結局のところは、それを経験してもらうことが最善の方法なのだろうけれど。それでも僕らは、感覚的に、具体的に、その人の興味関心のツボを刺激するべく、しばしば「好き」を伝えようと努力してきた。

 

比較による優位性の証明

 他方では、他の例と比較することによって、その優位性を説明しようとする場合もある。冒頭でも書いたように、コンテンツならばその売上、人間ならばその成績や業績などを明示することによって、他との差別化を図ろうとするものだ。

 この方法も、例えば「1 対 大多数」で比較するのなら、一定の効果は見込めるものだと思う。自分の好きなモノ=1と、それと同様のカテゴリーに属するモノの平均や一般=大多数と比較する場合は。

 もしくは、そのモノの全体での立ち位置を示す場合。売上は、その最たるものだ。そのモノが好きな人の数、世間での認知度をある程度は視覚化したものになるはずなので、優位性を示しやすい。もちろん、人気=絶対ではなく、それが全ての人にとって魅力的であるとは限らないので、ひとつの指標に過ぎないとも言えるけれど。

 

 そのような、広い視野で見た比較なら、まだ分かる。けれど、そこで具体例として個別のモノを出して、その優位性を証明しようとする場合は、慎重になる必要があると思う。

 作品にせよ、人間にせよ、「この映画は、名作と呼ばれたあの映画と比べでもここが優れていて……」とか、「この人は、あの人よりも気配りがきくし成績優秀だから……」とか説明するのは、ある程度は効果が認められることもあるが、反感を買う恐れもある、諸刃の剣だ。

 

 例えば、Aという作品の魅力を伝えるために、Bという作品を比較対象に出して、説明したとする。で、説明する相手が、Bの大ファンだったとする。

 「Bも良かったけれど、やっぱりAと比べたらまだまだだねー」くらいなら、まだいい。相手も「ふーん、具体的にはどの辺がいいの?」と興味を示してくれるかもしれないし、そこで公平性のある比較検討ができて、うまく説明ができれば、「じゃあ試してみようかな」となる可能性もある。

 

 けれど、そこであまりに興奮して感情的になってしまい、「いやー! Aはマジで最高だったよ! Bなんざ時代遅れだね! 演出も人選もダメダメだ!」なんて口走ってしまえば、戦争勃発だ。

 相手が温厚で冷静な人であればいいが、本当に心からBのことが好きだった場合、少なからずカチンとくるだろうし、「あ? ふざけんじゃねえよ!」と掴み掛かれても文句は言えない。おたくこわい。僕もそうですが。

 そんなことも考えられるので、あるモノの「好き」を語るにあたって、具体的に別のモノを出して比較する場合は、慎重になる必要がある。感情的に語る行為は、良い意味で相手の心に訴えかける場合もあるが、逆もまた然りだ。

 

実は「嫌い」を主張したいだけ?

 いつの時代も、自分の主張を通すために他を貶めようとする人、貶めることしかできない人はいるが、彼らの多くは、目的と手段がすり替わってしまっているように思えてならない。「好き」を伝えるために「嫌い」を主張していたのが、「嫌い」の主張がメインとなり、他はどうでもよくなってしまっているように見える。

 特に、ウェブ上で政治的な主張をしている人たち。原発問題にせよ、他国との関係性にせよ、本来は自らの主張を通すため、対立側の問題点を挙げたり、比較によって自分たちの優位性を説明していたはず。

 それが一部では、相手の揚げ足取りに徹したり、ヘイトを撒き散らすことが主たる主張になってしまっているように感じる。「愛国」を叫ぶ人たちのTwitterアカウントを見ても、そのツイートは他国・対立側批判とヘイトまみれ。愛国の「あ」の字も伝わってこない。僕は着物を仕立てるくらいには日本大好きっ子だけど、そんな人たちに同調したいとは思えない。

 

 少し方向性は違うかもしれないが、世代論も似た性質を孕んでいるように思う。おなじみの、「昔は良かった、なのに今は……」「最近の若者はこれだから……」という言説は、自分の「好き」な過去を美化し、その優位性を確保するため、現在や別世代を揶揄しているように見える。

 ――とは言え、「過去」を知らない僕らからすれば、それを否定するのも難しいのだけれど。

 

 これらは個人的な印象論かもしれないが、ウェブ上で他者に対して過激な発言をしている人の多くは、自分の主張や「好き」だけが真理だと疑っておらず、それを証明するためには、他はどうでもいい、蹴落としてもいい存在だと認識しているように感じてしまう。

 原発や国際問題に関しては、重要なものだし、考えなければならない問題なのだろうけれど、視野狭窄に陥って思考停止してしまえば、もうどうしようもなくなってしまう。

 

 感情論も比較論も、時には必要な手段だと思う。けれど、常に同じ方法で主張を通そうとしても、それでは問題解決に至らないし、相手の反感を買うこともある。

 「好き」を伝えること、自分の主張を通そうとすること。そんなとき、必ず反対側には「相手」がいる。相手とのコミュニケーション抜きに、何かが伝わるなどあり得ない。当たり前だけれど、何よりも大切なことだと思う。

 

 相手を批判するのなら、最低限の敬意と公平性を持って行いたい。

 

 

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*1:それで魅力が伝わるかどうかはともかく