ぐるりみち。

日々日々、めぐって、遠まわり。

「傍観者」を「参加者」へと変えるためには

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 インターネットでの炎上。事故現場で写メを撮る野次馬。困っている人を無視する大衆。いじめを容認するクラスメイト。選挙で投票しない若者。

 

 世の中は、「傍観者」で溢れかえっている、と言う人がいる。ただ見ているだけで、何もしない人。関わろうとしない人。彼らは、「面倒だから」「自分とは関係がないから」といった理由で、関わることを拒絶する。

 それだけならば、まだかわいいものだ。最近は、自身がその問題・話題に関わる気がないのに、言いたいことを言うだけ言って(しかもその多くは暴言)、あとは知らんぷりを貫くような人も少なくない。冒頭に挙げた、インターネットにおける「炎上」が、まさにそれだ。

 

 別に無関心でいることが悪いとは思わないし、その行為を「冷たい」と批判するつもりもない。人によって、興味関心を持つ対象はばらばらだし、各々のスタンスを貫くことに文句はない。僕だって、興味のないものに積極的に関わろうとは思わない。

 ただ、それにしても最近は、たちの悪い「傍観者」が目立つようになってきたように思う。ネットを見れば、見知らぬ相手に罵詈雑言を垂れ流しているような人がそこら中にいるし、事故現場でたむろし、警察や救急隊員の邪魔となっている野次馬もそうだ。

 

 そんな「傍観者」について、考えつつ、書き連ねていこうと思います。

 

 

ただ見ているだけの「傍観者」と、やじを飛ばす人たち

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 「傍観者」という言葉に、良い意味を想像する人は少ないと思う。そこで起こっている出来事や、そこにいる人に対して、何もせず、端から眺めているだけの人。または、複数の考え方や立場に関して、自らの主張をはっきりさせず、無関係の存在として、第三者的立場で静観しているだけ人。

 傍観者の何が問題になるかと言えば、それが時に、周囲に害を及ぼす可能性をはらんでいることだ。冒頭に挙げた、事故現場の野次馬の例が分かりやすい。なんだなんだ、と興味本位で群がった集団は、ただそこにいるだけで、救急活動を阻害する恐れがある*1

 

 同じような言葉として、「野次馬」と言えば、現代では明らかに悪い意味で使われている。ある出来事について、浅はかな興味を抱き、面白半分に煽り、騒ぎ立てるだけの人。その心根を「野次馬根性」とも呼ぶが、やはりそれを肯定的に捉えたような話は、聞いたことがない。

 この言葉が転じたものに、「野次る」という言葉もあるが、前述の「たちの悪い傍観者」とは、まさにこの「やじは飛ばすが関わる気はなく、見ているだけの人」のことであると言える。

 

 彼らの行動に、論理的な理由などない。その多くは、単純に「面白そう」だから。それに乗っかって、好き勝手に騒いでいるだけだ。

 正直に言えば、その気持ちは分からなくもない。何か非日常的な出来事に遭遇すれば、それに惹かれて、羽目を外してしまうことだってあるかもしれない。もしかすると、その興味が良い方向に動いて、対象に対して何かメリットをもたらすこともなきにしもあらずだが、それは稀なケースだろう。具体例が、パッと思いつかない程度には。

 

 ただ見ているだけ、さらにそれが発展して、無責任に騒ぎ立てるだけ。そのような行為は、一般的に好まれるものではない。にも関わらず、僕らは少なからず、何かしらの事象に対して「傍観者」となってしまっている。

 

「自分が参加しても何も変わらないから」

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 例えば、選挙。ちょうど今週末は、都知事選もある。

 

 若者の投票率は、いつの時代も低いらしい。なぜだろう。投票に行かない人の考え方として、第一に挙げられるのが、「自分の一票で何かが変わるとは思えないから」というものだ。そりゃそうですよ。ただでさえ少子高齢化が叫ばれている中、数少ない若い世代のうちの一人が投票したところで、変化があるとは思えない。

 かくいう僕も昔から、「政治?なにそれおいしいの?」などと、全くの無関心を貫き通してきた。僕の場合は、単純に「興味がないから」「かったるいから」という理由ですが。

 

 もしも「選挙」という事象に限って、傍観者を減らそうとするのなら——つまり、投票率を上げようとするのなら。政治に無関心な人に、興味を持たせなければならない。

 それは何も、「参加すれば変わる!」と熱く語って説得するような話ではないと思う。「なんかおもろそうなことやってる!」と、こちら側に視線を向けてもらうこと。少しでも、「おっ?」と思ってもらえれば、意外と食いついてくる人は多いと思う。

 

 実際、今回の都知事選で、「おっ?」と興味を惹かれ、現在進行形で釣られている一人が僕だ。政治なんて毛ほども興味はなかったけれど、「何か変わったイベントやってる!」と関心を持ち、先週末、代々木公園で開催された、せんきょCAMP「せんきょフェスティバル」*2で、3人の候補の話を聴いてきた。

 その後、「ついでだし」ということで、家入候補の街頭演説も聴いてきた。僕は家入さんを支持しているわけではないし、そもそも、投票に行くかどうかもまだ決めていないが、「自分でもちょっと調べてみようかな」と考え始める程度には、刺激的で、面白いものだった。

 

 「積極的に参加してやる!」という程ではないが、ただ外から眺めていただけの参議院選挙などと比べれば、自分の見方が変わってきていることを実感せずにはいられなかった。「話を聴きに行く」そして「調べる」という能動的行為を行なった以上、「傍観者」から「参加者」へと自分はシフトしつつあると思うのだけれど、どうだろう。

 

傍観者を引き込む「応援」と「当事者意識」

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 ただ見ているだけの「傍観者」と、積極的に関わっている「参加者」の違いは何かといえば、そこにあるのは明確な「当事者意識」だと思う。家入さんの選挙活動を見ていて感じるのは、そんな当事者意識を、周囲にうまく芽生えさせているように見える点だ。

 

 ボランティアを募って、FacebookやTwitter上で情報交換しつつ、都内の掲示板にポスターを貼ってもらう作業。マップを埋めつつ、仲間と連携して進めていく一連の作業は、どこかゲーム的ですらある。「それくらいなら自分にもできるし、楽しそう」と思わせ、活動に参加するハードルをうまく下げているように感じた。

 参加することによって、自然と当事者意識が生まれてくる。昨年末、この「当事者意識」が一部で話題となったことがあったが、僕はその時、こう書いていた。

 

 物事は、「周囲(社会)から与えられる」ものと、「自分(個人)から進んで為そうとする」ものに分類することができると思う。そして、その行為者としての人間も、2つに分けることができる。

 

 簡潔に表現すれば、「流れに乗れる人」か、「流れを作る人」か。前者は、周りから与えられた課題を「自分ごと」として捉え、行動に移せる人。後者は、周りから課題を与えられてもやる気が出ず、抵抗するが、自分がやろうとしたことは取り組める人。

与えられた物事に「当事者意識」を持つのは難しい - ぐるりみち。

 

 本件の場合、家入さん側が「流れを作る」ことによって、周囲の人間に参加意欲を持たせ、「流れに乗りやすい」ような場を構築したように見える。この流れに乗ろうとやってくる人は、もともとは傍観者であったが、少なからず興味を持っている人たち。なので、実際に参加さえすれば、当事者意識は自然と生まれると思われる。

 

 この当事者意識を生み出すのに一役買っているのが、「応援」という行為だ。ちょうど昨日、松岡修造さんの著作である『応援する力』の感想記事を投稿したばかりであったため、思い出したのが、次の言葉。

 

応援しているうちに選手と同化し、ともに戦っている感覚になる。そしてそこから自分も勇気をもらう。応援にはこうした力の循環があるのです。

応援の素晴らしいところは、自然発生的に起こるところだと思っています。

人は頑張っている人、全力を尽くしている人を応援したくなるものです。

 

 自然発生的で、手軽にできる「応援」は、傍観者から「参加者」になるための第一歩であると言える。言わば、最初の意思表明のようなもの。選挙の例で言えば、「あの人の言っていることはなんとなく共感できる」といった、単純な感情。

 「興味ない」から、「あの人ちょっと気になる」そして、「応援しよう!」へと至る。ここで初めて、傍観者は参加者たりうるのだと思う。その後、全力でコミットしていくかどうかは別として。応援したい、つまり、「関わりたい」と思わせることができれば、それは、それまでただ静観していただけの人を変える、力となる。

 

きっかけは、シンプルな感情から

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 今回の都知事選。やれ脱原発が争点だ、やれ候補者の公約があやふやだ、やれ年寄りばかりだなんだと言われていますが、興味を持つきっかけ、そして投票へ行くきっかけは、単純なものでいいと思うのです。

 「なんか家入っていう変わり者がいる」でも、「小泉さんが出てくると聞いて」でも、「マック赤坂が変なことやってる」でも。そこで、少しでも興味を持って、調べて、「この人良さそう」と思えたら、そのまま投票に行っちゃってもいいと思う。

 

 こんなことを書くと、「東京都の未来を、さらには国政にも影響を与えかねない選挙に対する認識が甘すぎる!」などと突っ込まれそうですし、仰るとおりだとも思います。

 でもでも、選挙権を持っている人の、そして実際に投票に行く人のうち、いったいどれだけの人間が、候補者全員の公約を比較検討して、支持するか否かを決めているんでしょうか。ぶっちゃけ、そこまで綿密に考えている人なんて、ほとんどいないのでは。

 

 僕の勝手な想像ですが、多くの人は、メディアの伝える「主要候補」を見て、大雑把な公約を読んで、最後は「なんか良さそう」で決めているんじゃないかしら。もしくは、人柄や、過去の活動を知っていて、もともと好ましい人がいれば、その人に投票するんじゃないだろうか。

 

 僕の周りの、同世代の人たちを見ると、「政治には明るくないから、詳しい人に任せる」「公約やら実績やらを確認する時間がない」といった理由で、投票に行かない人も少なくない。なんというか、変に真面目なんです。

 でも、そろそろ開き直っちゃってもいいと思う。感覚で決めちゃってもいいと思う。だって、そんなことを考えている余裕がないんだもの。一度、就職して、ニートになって分かった。休日は休みたい。

 候補者全員を見なくても、テレビで話しているのを見て、感じが良さそうだったとか、たまたま街頭演説に遭遇して主張に共感できたとか、そんなものでいい。もちろん、最低限、調べるに越したことはないけれど。今は、ネットがある。

 

 幸か不幸か、無職の僕には時間があるので、いろいろな情報に触れつつ、最終的には「この人だ!」と思える候補を決めて、投票に行けたらいいな、とは考えております。

 

ネット選挙 解禁がもたらす日本社会の変容

ネット選挙 解禁がもたらす日本社会の変容

 

 

※本当は、「ネットにおける傍観者云々」で記事を書こうと思っていたのに、いつの間にか選挙の話になっていた。別に選挙に興味ある有識者だぜアピールじゃないです。

*1:「自分に何かできないか」と駆け付けた人もいるかもしれないが

*2:せんきょCAMP【東京】FESTIVAL