「幸せの総量」のはなし


 夕食を終え、みかんの皮をむきむき。明日は何すっぺかなー、と考えていたら、みかんが爆発した。フフフ…我が内なる力が開放されつつあるようだな…*1

 そんなとき、ふっと「幸せの総量」という言葉が降ってきた。なんだこれ。内なる力なぞではない。たまにある。誰かの話で耳にした言葉とか、本で読んだ言葉とかが、何の前触れもなく蘇ってくる感じ。ググってみたけれど、特にそれっぽいものは見当たらなかったので、まあきっと、どこかで聞いた言葉なんだろう。

 

 最近は、ブログを書くにしても、本の感想だったり、記事に対するツッコミだったりで引用ばかりしていたし、せっかくだ。この言葉について、思うまま書き連ねてみるべ。

 

幸せは歩いてこない

 だから、はしるーはしるーおれーたーちー!ふんふふーん!

 

 「幸せ」とは!――なんてことを語るつもりは一切ない。いや、一切なくはない。語るよ。語りますとも、ええ。何が幸せかなんて、そりゃあ人によって違う。金がありゃ良いなんて人もいれば、好きな相手と一緒に過ごせりゃ良いって人もいる。世界を旅するのが楽しくてしゃーないって人もいりゃ、自室に引きこもってめくるめくネットワールドに浸かるのが楽しいっちゅー人もいる。

 そんなことを書いてみると、じゃあ「幸せ」は、「楽しい」と同義なのか?という疑問が現れる。うん、それは「幸せ」なことだ、きっと。その人にとって、気分が高揚して、「ひゃっはー!イカれてやがるぜー!」ってくらいの気持ちになるような楽しさは、幸せだ、ということでしょう。ドーパミンが溢れんばかりの、最高に『ハイ!』てやつだア!セロトニンの分量はいかがでしょうか?*2

 

 「幸せ」は、「どこまで妥協できるか」という話でもある。自身の現在の生活と、自分のやりたいことを鑑みて、「妥協点」を探す行為。本当は、どうしてもやりたい仕事がある。夢がある。けれど、そこそこの給料をもらえて、普通に暮らしていける今のせいかつも悪くない。そうだ――、ぼかぁ――、しあわせだぁ――。

 ……と、なるのが、幸せの妥協。周りから見てどう感じるかは置いておいて、「その生活に満足しているのならば、それでいいじゃない」という、自己完結型の幸せ。ただし、それが苦しそうに、必死に言い聞かせているように見えた場合には、ヤヴァい。話を聞いてやってください。危ない。「本人が良いと言っているなら――」って場合じゃないかもしれない。

 

 「自己完結型」と書いたけれど、そもそも、幸せってのはそんなもんだと思う。他人の基準なんざ関係なっしんぐ。自分自身が、「いいね!」と感じ続けていられるのなら、それでいいじゃないか、というもの。基本的な「幸せ」に対する考え方は、これが一番しっくりきそう。

 

 他方では、「人間の欲には際限がない」という話も。現代日本じゃ、そんな極端に強欲な人間なんてあまりいない気がするけれど、求め、満たされたら、その次へ次へと向かってしまう人もいるらしい。ハングリー精神ってやつかしら。一昔前の仕事論(今も?)だと、「とにかく上を目指し続けろ!」みたいな主張は普通だったのかな。確かに、「現状に満足すること=思考停止」といった考え方は否めない。というか、そんなことを前にブログに書いたような…。

 結局のところは、バランスをうまく保つこと、なんだろうか。求めすぎるのはよくないけれど、常にそのままであり続けようとするのも危険である、と。現状維持は、衰退にしか繋がらない。そう考えると、まずは「今が幸せ!」と思える状態を目指して、その後は程々に求めようとすればいいのかな。承認欲求の話でもおなじみ、マズローさんの5段階をひとつの基準にするのはあり。

 

 究極を言えば、「いま、生きている、この瞬間*3がしあわせ――!」と叫んで、バックに☆をキラキラさせながらシャララーンという効果音を響かせられるような人が最強。アホみたいに見えて、そのじつ、悟りの境地へ至っている。

 

幸せは景気

 やべえ、てぇへんだ!「幸せ」単体で語っていたら、「総量」がどっかに行っちまった!もう疲れたんで、「送料」の話でいいっすか?Amazonさんマジパネーっすてことで…いやもうちょっとがんばります、はい。

 

 何を基準に「幸せの総量」を話すかで、また変わってくるけれど。全人類のそれなのか、個人個人のものなのか。はたまた、それが決められているのが前提なのか、そんなことはないのか。

 世の中には、幸せな人もいれば、不幸な人もいる。幸福を手に入れる人の対局には、その割を食って不幸になっている人がいる。軍需産業で儲ける他方で、人が殺されているだとか、そういう話だろうか。

 

 総量を見れば、「幸せ」と「不幸」はバランスが取れている、というのは、一見、否定も肯定もできないように思えるが、どうなんだろう。個人の印象論としては、やはり「ネガティブ」がもたらす力は強い。良いことがあったとしても、ちょっと悪いことがあれば、それは台無しになってしまう。僕らの感情を強く動かすのは、どちらかと言えばマイナスの出来事だ。

 「不幸」は、どうしても連鎖しがちなものという印象を強く受ける。治安が悪化すれば、内乱が起きる。内乱が起きれば、物資が不足する。食糧も減る。食糧が減れば、健康状態が悪化し、伝染病が蔓延る。どうにも、不幸は連鎖しやすく、早めに歯止めを掛ける必要に迫られる。

 僕らの日常的なことで言えば、実際は大したことではなくとも、凹んでいるところに追い打ちがくれば、「鬱だ氏のう」となってもおかしくない。ネガティブスパイラルはおっそろしいもんやで。僕らのメンタルは、そんなに強くはない。

 

 しかし、逆に考えれば、不幸の多くは、悪い方向に考えてしまう「不幸フィルター」の要因が大きいようにも見受けられる。もっと良いことに目を向けよう。プラスに考えよう。そんな言説は、いつの世も必要とされている。明日があるさ明日がある。

 

 全球的な視点で見ると、「幸せ」は、人間のメンタル面に大きく左右されるものなのかもしれない。心が健康であれば、もちろん気持ちは前向きになって、幸せを実感できる人が増える。心が不健康であれば、後ろ向き俯き、「もうダメぽ…」と、幸せを実感できなくなる。この「実感できるか否か」は割と重要そうだ。

 僕らの「幸せの総量」は、景気動向ならぬ、「幸福動向」といった指標で変化するものなのかも。世の中に「しあわせ~」な流れが漂っていれば、それを実感できるが、「ふこう~」な流れが漂っていれば、実感できない。僕ら人間が社会的動物である以上、そんな大きな流れに左右されていてもおかしくはない。

 

 ということは、「幸せの総量」は常にバランスが取れている、とは言い切れない。世界的に見て、幸せが「好景気」な時と、「不景気」な時があると考えられるからだ。ただし、それを3次元的に考えるとどうなるだろうか。幸せの景気動向を、「時間」も加味した上で見直してみれば、案外、「幸せの総量」はバランスのとれたものになっているかもしれない。

 

余談という名の本の感想

 そういえば、冒頭に書いた「前触れもなく言葉が蘇ってくる」現象って、何か名称があるのかしら。思い出し笑い的な。フラッシュバック?さっき読み終えたばかりの小説『クォンタム・ファミリーズ』に登場する、検索性同一性障害*4が思い出されて、ブルった。平行世界が脳内で自然再生されるとか、怖すぎるぜよ。

 

 この本、SFや哲学に疎く、量子論なんてわけわかめな僕にとっては、結構難解な作品だったのだけれど、インターネット的、情報論的な面で見れば、ひっじょーにおもしろい内容だった。

 検索性同一性障害もそうだ。見知らぬ他人の経験や、家族ではない家族の記憶、自分ではない架空の人生の記憶が、すべて「じぶんのもの」として想起されるなんて、とんでもない話ではあるけれど、これ、あながち荒唐無稽のものとは言い切れない。

 蓄積された記憶をもとに、架空の記憶が捏造されていた、なんてことは、僕らにとっても割と普通のことだ。いわゆる「都合のいい記憶」というもの。それが、自分の経験に限らず、他人からもたらされた情報を「じぶんのもの」として、経験として記憶し、都合良く解釈してしまうケースだってある。――実生活で付き合いがあったわけでもないのに、特定の民族を蔑視する人とか。

 

 僕らは既に、情報に振り回され始めている。この本に登場する平行世界では、情報が自動記録、編集されるようになった結果、莫大な情報で溢れかえり、真偽を確かめる術が消え失せ、現実はネットに食いつぶされてしまっていた。アナログワールドに逆戻り。そんな未来が、ないとは言い切れない。

 

 そういえば、鍵っ子でもある東さんが書いた小説で主人公が辿り着いた結論が、後に発売される『Rewrite』のテーマと非常に近いような?

 

*1:力加減を誤っただけ

*2:http://www.nicovideo.jp/watch/sm19715403

*3:「瞬間」と書いて「とき」と読む

*4:検索性同一性障害は、人間の量子意識計算の根幹を支えるボーア=ペンローズ器官、海馬歯状回顆粒細胞の量子発散で生じる精神疾患だ。発症すると、患者は意識と記憶の量子計算を収束することができなくなる。単語や記憶を脳内で検索すると、脳がその単語や記憶から導出可能なすべての命題空間をひとしく検索してしまうようになる(P.318)