「『ゆとり世代』に気づいて欲しいこと」に対する違和感


読みました。ライフネット生命の社長さんが、入社1、2年目のいわゆる「ゆとり世代」の社員と対話して、感じたことをまとめた内容。

読んだ所感として、「ゆとり世代」という言葉に関しては、単純に「今の若者」という括りとして使っているような印象。わかりやすいですし、そこは記事の本題でもないように思います。ただ、内容に違和感を覚えた部分もいくらかあったので、考えたことをば。

 

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社長さんの「ゆとり世代」に対する見解

まずは、簡単に元記事の内容をまとめてみましょう。

元記事の筆者(社長さん)が話をした新入社員たちは、「自分たちの目からみると合理性がないこと/常識とは考えられないことが、なぜ企業社会ではまかり通っているのか?」という疑問を、一様に抱えていたらしい。

 

「会社にビーサンで通勤しちゃダメと言われた。なぜ?」

「社内の飲み会でなんで先輩にお酌しなくちゃいけないの?」

「私は事務職だから外部の人に会うことはない。なんで化粧しろって言われるの?」

「大企業を選んだお前は安定志向だと言われるが、大企業が安定なんて思ってない。なんで上の世代はそう思うの?」

「自分は目をみてハキハキ挨拶するが、なんでみなPC見ながらしか挨拶してくれないのか?」

 

それに対して筆者は、次の要素を挙げ、「彼らは、これらの事実に気づいていないのではないか」と書いています。

 

・社会は機能性・合理性だけではなく、一定のプロトコール・規範のもとで動いていること

・自分とは違う世界観をもった人たちがたくさんいて、一つの正解があるわけではないこと

・いい仕事をするため、自分のやりたいことを実現するためには、その共通言語に沿ったコミュニケーションが不可欠となること

 

そして、服装やお酌などの、そんな「ちょっとしたこと」で他者にマイナスの印象をもたれるのは「損」であり、若いうちに一番大切なのは、外部の人からの「信頼」を勝ち取ることだ──というように続けています。

 

そして、信頼を勝ち取るためには、単に自分の小さな仕事だけを着実にこなせばいいというわけではないのだ。外部の人たちとどのように接するかという能力も見られているいるのだ。(原文ママ)

 

「お酌」という「伝統」の気味の悪さ

さて、筆者の主だった主張を自分なりに汲み取ると、「世の中、機能性と合理性だけじゃまわらない。うまく会社(仕事)を回していくためには、周囲の人間との関係性(信頼)が最も大切なんだ!」──という感じでしょうか。

ここだけ読むと、まったくもって仰るとおりだと思います。というのも僕自身、僅か1年半ではありますが、営業として数多くのお客さんを訪問してまわっていた身。そこで最も重要なのは、「お客様との信頼関係」だという実感がありました。

いくら商品に魅力があれど、それを売る人がダメダメだったら、積極的に買おうとは思えない。それなら……と、競合他社の製品を選ぶ人が多いでしょう、多分(もちろん、業界や会社規模に左右されますが)。

 

ところがどっこい。

 

一方で、上司や先輩、職場の人間のあいだで、果たして「信頼関係」は最重要事項なのか否かと問われれば……どうだろう? 決して、そうとは言い切れないのではないかしら。──職場の間柄で必要なのは、あくまで「仕事における信頼」に過ぎないのでは?

元記事の例で言えば、ビーサン──つまり服装に関してならば、まだ理解できます。奇抜な格好で通勤すれば、それがお客様の目に留まり、会社の評判を落とすことにつながりかねない。そういったリスクは、なるべく排除して業務に当たるべきだと思います。

 

けれど、お酌に関しては、ちょっと意味がわからない。……いや、わかりますよ? 普段からお世話になっている上司や先輩に、ねぎらいの意味で「どうぞどうぞ」とお酌をする行為の意図するところ、それ自体は。

しかし、それを「文化」あるいは「伝統」として、強要するのはどうなんだろうか。

お偉いさんがいらっしゃる飲み会では、下っ端社員が列をなして、一人ひとり、お酒を注いで回る光景の奇妙さ。顔に変な笑顔をはりつかせた社員たちが、お世話になってますだの、今後もどうぞよろしくだの、お決まりの台詞を垂れ流してくるのに対して、相槌を打つだけの簡単なお仕事。

──いやいや、なんですかこれ。なんかおかしくありません?

 

合理性と協調性の衝突

元記事に「お酌」の例が出ていたので、ここではそれについて突っ込みました。が、ほかに同じような例を挙げれば、そもそもの「飲み会」や、各種社内イベントへの強制参加といったものも、仕事において必要不可欠な信頼関係ではないと思います。

言うまでもなく、会社における評価は、仕事の中でなされるべき。評価基準となるのは、あくまで就業時間内の働きぶりを前提とした「仕事における信頼」であって、「付き合いの良さ」ではないのではないかと。

すべてがそうだとは言わないけれど、筆者の言う「一定のプロトコール・規範のなかには、「本来の業務とは無関係な、会社の伝統文化」ようなものが多分に含まれているように感じます。さらに言えば、その規範の存在によって、得られるはずの合理性を無為にしている印象すらある。

 

──というふうに反論すれば、「若者が気づいていないこと」の3つ目、「いい仕事をするため、自分のやりたいことを実現するためには、その共通言語に沿ったコミュニケーションが不可欠」だということを反論として返されるかもしれません。

たしかに、文面通りに受け取るのなら、これにも賛同できます。円滑に仕事を進めるためには、社内のコミュニケーションが素早く確実に行われている必要がある。とはいえ、その共通言語とやらを飲み会や週末の社内イベントに求めるのならば、自分は遠慮したく思います。

元記事を読むと、筆者の主張には「会社は絶対」「周囲に合わせて協調せよ」といった思考がにじみ出ているように思えてならないんですよね。「信頼」を一番大切だと断言していることもそうだし、「お酌をしないことが自分の信念であれば、それを許す会社を選べばいい」という物言いもそう。……ちょっとそれは、押し付けがましさがすぎるんじゃないかしら。

 

考えるに、この話題の根本には、新入社員と社長、双方の価値観の衝突があるのかもしれません。

新入社員側からすれば、仕事とは直接の関係のない、「無意味なもの」を禁止したり、強制する意味がわからない。合理性も妥当性もないのに、それを無理強いするのはおかしい。

社長側からすれば、仕事をする上では、会社内の社員同士の連携が最重要。変な印象を持たれないためにも、協調して、みんなが同じ、「当たり前」の行動をとる必要がある。

 

僕は新入社員側の人間なので、お上の正確な考えはわかりませんが、あまりにも「協調性」にこだわりすぎているような気がしてなりませんでした。みんなが足並みをそろえており、誰が外から見ても同じに見えるならば、とやかく言われることはないかもしれない。けれどその結果、合理性やら多様性やら、いろいろなものを犠牲にしているのではないかしら。

会社によっては、無駄に「絆」やら何やらを叫んで、飲み会やイベントをとにかく開こうとするところもあるとしばしば耳にします。でも、半強制的に嫌々参加させられたイベントで、本当に「絆」が深まるとは思えない。飲み会に一回参加したら「絆パラメータ」がいくつ上がるとか、そんな単純な話じゃないと思うんですが……。

 

「ゆとり」ですがなにか?

そして最後、「若者が気付いていない」ことのもうひとつ。「自分とは違う世界観をもった人たちがたくさんいて、一つの正解があるわけではない」──これ、若者に聞いたら、むしろ「え? 当たり前じゃね?」って答えが返ってくるんじゃ……?

大人たちが「ゆとり世代」と称する僕らはその名のとおり、「ゆとり教育」を受けてきた世代です。その内容の是非はともかくとして、学校では「総合的な学習の時間」という謎の授業でいろいろやらされ、土日は休日で好き勝手に過ごしてきました。

それは詰まるところ、「学校の枠に縛られない活動にそれなりに取り組んできたとも言いかえられるのではないかと。「上の世代よりもいろんな価値観を持ってるよ!」なんてことはとても言えませんが、「自分とは違う世界観をもった人たちがたくさんいることを知らない」なんてことは決してないと思う。

 

というか逆に、「正解はひとつ! じゃない!!」を学ばされてきた印象が強い。さらに付け加えるなら、多様性の権化とも言うべきインターネットに幼い頃から触れてきた世代でもあるんですよね。

もちろん、 “違う世界観” が指すものが「働き方」や「会社に従うこと」といった、「働きはじめたばかりの若者が知る由もない世界」のことであるならば、そのとおりだとは思います。というかこれ、よく見なくてもブーメランなn……いえ、なんでもありません。

以上、「ゆとり世代」のひとりとしてどこか違和感を覚える記事だったので、思うことをつらつらと書いてみました。──ところで、元記事の「これって、『ゆとり世代』ではなく、いつの時代も若手は同じなのかもしれませんね」って、突っ込み待ちなのかしら……。

 

 

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