ぐるりみち。

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辞書から離れて「個人的な定義」を考えることで、思考を強化する

 こちらの記事を読みました。「言いたいことはなんとなくわかるけれど……」と思っていたら、案の定、Twitterやらブコメやらで総ツッコミを食らっている模様。「それで、どうやってコミュニケーションを取るんだよ!」という。

 この記事に対する言及として、「主題は『物事について他人のいうことを鵜呑みにせず自分で考えよう』だと思います」という指摘をされている方がいますが*1、僕もそのように読みました。イケダさんの主張は、「物事の定義や考え方は人によって変わるのだから、自分の言葉で説明できるようにしよう」ということではないかな、と(違っていたらすみません)

 

辞書の「定義」は絶対ではない

 まず、「定義」という言葉の定義はどのようなものだろう。話が始められないのでまずは辞書に頼りますが*2「用語の意味を明確に規定する文章*3」「物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること*4などと定義づけられているようです。

 ここでは2つの「定義」を参照したけれど、それらの意味をよく見ると、微妙にニュアンスが異なっているようにも読める。特に後半の「規定」「限定」という表現は、それぞれに異なる意味合いを持つものなのではないかしら。

 これらの表現について、イケダさんに習って僕個人の定義を書くと、「規定」は単純に「物事を定めること」であるのに対して、「限定」は「物事を一定範囲に限ること」であると思う。

 「え? 同じじゃね?」と感じる方もいるかと思いますが、「定める」と「限る」の違いは大きい。一点集中、その物だけを見て「お前はこうだ!」と決定している前者に対して、後者は「こういうものがあるなかで、お前の範疇はこうだ!」と決めているように見える。

 つまり、「限る」の場合は、外側に比較対象の存在があるわけです。

 「規定」が、ただひとつの点を見ているのに対し、「限定」は、集団の中に複数ある点のなかから、ひとつの点に焦点を当てているような。……図示できればいいんだけれど、絵心のなさがバレるのでしません。はい。

 「そんな差は違いに入らないし、お前の勝手な解釈だろう」と突っ込まれるかもしれませんが……仰るとおりです。けれど、そのような解釈の違いが生まれてしまう時点で、定義に「絶対」がないということは間違いないと言えるのではないでしょうか。

 というかそもそも、辞書の定義を決めているのも出版社の編集さんなのだから、それが「絶対」であることなどあり得ない。そのような意味で考えれば、辞書は「多くの人がこう使っていますよ!」という指標であって、ひとつの参考書に過ぎないのかもしれませんね。

 

「定義」=「共通認識」

 さてさて、そのように意外と曖昧な「定義」がなぜ重要視されているのかと問われれば、それが会話や交流に必要な「共通認識」だから。

 コミュニケーション能力だ空気読めだと、最近はちょっと、会話するにも力み過ぎじゃないかと思うのだけれど――そんな会話以前の大前提となってくるのが、僕らの持つ「知識」です。

 日本語ひとつをとっても、僕らは膨大な量の単語と、それぞれの意味(定義)を記憶している。そして他人と会話をするときには、そのたくさんの単語が詰まった引き出しから必要な物を選択して、相手に伝えようとしていると言える。

 そのとき、お互いに持っている単語の「定義」が異なっていたら、どうなるだろう。当然、意図がうまく伝わらないし、それをいちいち説明する必要が生じてきてしまう。だからこそ、共通認識としての、その単語の「一般的な意味」は理解しておく必要があると考えられます。

 

定義不明、解釈ばらばらのマジックワード

 ところが一方で、僕らの生活には、そんな「共通認識」たり得ていない言葉もまたあふれている。曖昧なまま、なんとなく、便利だから、よく耳にするから――と使われているテンプレワード。便利な魔法の言葉、それが「マジックワード」です。

 たとえば、「社会人」という言葉がある。この言葉について、その定義を説明できる人がどのくらいいるだろうか。そして、その説明された定義は、共通の認識として広く共有されているものだろうか。

 多くの人の共通認識としての「社会人」とは、「学校を卒業して、会社に勤務している人」などと説明されるはず。ただし、細部の説明は異なってくるとも思う。「会社」という単語を入れず、「働いている人」と説明する人もいるだろうし、「成人して社会に出た人」と言う人もいるかもしれない。

 何をもって「社会人」とするかは、解釈によって思いのほか変わってくる。主婦は含むの? 自営業は? フリーランサーは? ニートは? 未成年は? ――などなど。

 そういえば先日、ハローワークでマナー講座のビデオを見た時にもこの言葉が出てきたのだけれど、何とも言えない内容だった。

講師役の男性「一人称はどのように使っていますか?」

学生役の若者「えーっと、普段は『俺』、改まった場では『僕』ですね」

講師「はっはwwwだwwめwwでwwすwwねwww社会人の常識として、しっかりと学んでおきましょうねwwww」

 ……うーん、これはいったい、どのような意味の「社会人」なんだろう。

 そのような曖昧な言葉を使って、「社会人なんだからそんなのできて当たり前だろう」「社会人としての意識を持て」「それでもお前は社会人か」とか何とか仰られても、こちらとしては「社会人ってなんやねん!」と言いたくなる。常識ってなんぞや。

 

「個人的な定義」を持つ意義

 マジックワードは、使う人、場面によって意味が異なってくるため、イケダさんの言う「個人的な定義」を持つ言葉であるように見えなくもない。

 しかし同時に、マジックワードは使用者本人にとっても曖昧な言葉であるため、納得のいく説明をするのが難しい。それでは明確な「定義」があるとは言えないし、ただ言葉に振り回されているだけだ。

 そんなマジックワードの存在を鑑みれば、「個人的な定義」を持とうという主張にも納得がいきます。曖昧な言葉を曖昧なままにせず、自分なりに合点のいく「定義」を考えることは、辞書を参照するだけで終えるよりかは、生産的な活動と言えるでしょう。

 また、日頃から「当たり前」のものとして使っている言葉について考えることは、思考力のトレーニングにもつながる。すでに自分の中にある「当たり前」で「一般的」な定義とは別に、もうひとつ、別の視点を持つということ。

 誰かに与えられたものだけを信じ続けるよりは、自分で咀嚼して深みを持たせたほうが、考え方ひとつとっても、芯のあるものになるのではないかしら。

 もちろん、一般的な考え方を放棄し「個人的な定義」だけに塗れてしまっては、コミュニケーションの取れない残念人間になりかねない。なので、共通認識を持つことは大切。辞書の定義も自分の定義も、いずれにしてもひとつの考え方に過ぎないのだから。

 なんでもかんでもを「当たり前」のものとして受け入れるんじゃなくて、「どうしてそのような意味(考え方)を持っているんだろう」と考えてみることは、何と言っても楽しい。折に触れては、自分なりに「個人的な定義」を考えてみるのも悪くない。

 

 

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