ぐるりみち。

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ネット上での議論は本当に「無意味」なの?

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 「ウェブ上での議論は無意味だ」という意見をよく耳にする。人それぞれの持っている意見が異なり、自らの主張を正しいと信じて疑わない彼らは、相手を打ち負かすことしか考えていない。そんな相手と議論をしても妥協点など見つけられるわけもなく、何の価値も見出せない。

 

 もちろん、そのような人は、インターネット上に限らず、現実にも数多く存在するはずだ。にも関わらず、「ウェブ上での」という言葉が付いてくるのは、多くの人が「それ」を経験しているからだと思う。

 つまり、過去にネット上で議論をして、その意味のなさを、身をもって知っているためだ。掲示板やチャット、SNSなどで議論を行い、「どうせ話しても理解されない」「罵り合いに発展するだけ」「感情的でついていけない」と理解してしまった人たち。そんな、経験に基づいたある種の諦観があるからこそ、「無意味だ」と断言できるのだろう。

 

 ところが、他方では、ネット上で「議論的ななにか」が日常的に行なわれている媒体がある。それが、ブログだ。あるブロガーの主張に誰かが反応し、その内容に言及した記事を書く。それを読んだ元記事のブロガー、もしくはまた別のブロガーが、その内容について突っ込みを入れる。

 それは、互いに意見を論じ合う「議論」ではないかもしれない。しかし、感情的、短絡的に短い文章で主張をぶつけ合うような、掲示板やSNSにおける口喧嘩と比べれば、まだ「議論」的なものであるように見える。

 

 前置きが長くなってしまったけれど、そんなウェブ上での「議論」の是非について考えてみた。

 

 

「議論は無意味」なの?

 「ネット上での議論は無意味だ」とすっぱり切り捨てている人の一人に、ちきりんさんがいる。

 

ネット上で議論をしない理由は、「あまりに非効率で耐えられないから」なのですが、実はリアルの社会でも私はそんなに議論をしません。

 

その理由は、「議論する意味がないから」です。

いったい「議論する意味」はどこにあるのでしょう? 合意すること? 意見をまとめること?

 

世の中のすべての人の意見が「一致する」などということは起こりえません。いくら話し合い、議論しても、結果としてみんなの意見が一致した、などということは、ほぼないんです。

 

起こりうるのは「一部の人に、自分の意見を放棄させる」ということだけです。話し合って合意に達したように見える状況を思い浮かべて下さい。

 

(中略)

 

「話し合って決める」という幻想を押しつけることは、「多様性の否定」につながります。「ひとつの意見だけが正しく、後は間違っている」と考えるのは恐ろしいことです。

 

「話し合って決める」という幻想 - Chikirinの日記

 

 まとめれば、「議論の結果、全員が納得するようなことなどあり得ない。どれかひとつに決めるよりも、意見の多様性を尊重すべき」という要約になるだろうか。極端かもしれないが、分からなくはない。

 しかし、これを読んでいて感じるのは、「そもそも議論って、結論を出さなければいけないものなの?」という疑問だ。「議論」という単語を検索してみたが、「それぞれの考えを述べて論じあうこと*1とあり、他の辞典にも「その上で、結論を出す」という意味の記述は見当たらなかった。

 

それ、結論を出す必要があるんです?

 とかく僕らは、あらゆる物事を、ひとつの「結論」に導こうとする。その行為は悪である。あの人が言うことは正しい。お前の意見は間違っている。

 

 先週、話題となっていた、「人工知能学会の表紙は女性蔑視?」の問題も、ひとつのイラストに対して、人それぞれが異なる解釈をした結果、それを巡って論争が巻き起こったものだ。解釈なんていくらでもしようがあり、みんなもそれを分かっているはずなのに、自身の主張こそが正しいと信じて疑わない。

 自分なりの意見を持つのはいい。けれど、自身の主張以外を「間違っている」ものとして、全否定、すっぱりと切り捨てるのはいかがなものか。

 

 確かに、真っ向からぶつかるような、正反対の主張もあるかもしれない。しかし、「全ての要素、考え方において、全く理解のできない意見はない」というのが、僕の考えだ。

 例えば、この人工知能学会の表紙の問題でも、「掃除をする女性は、男性の欲望の投影だ!」という主張には「いやいやいや」と突っ込みたくなるが、同じ人が話す「学会誌の表紙としてはふさわしくない」という意見には、頷ける。「ふさわしくない」とまでは言い切れないが、違和感があるのは確かだと思う。

 

 自分と異なる意見の中にも、理解のできる点があってもおかしくはない。それなのに、自身の正しさを証明するために、相手を全否定するような論調が多いのは、どこかもったいない。もう少し、融通を利かせてもいいと思うのだけれど。

 このような、「ひとつの意見を『正しい』として決めることへの違和感」という点に関しては、ちきりんさんの意見に賛成だ。

 

ぼくのかんがえたさいきょーの「ぎろん」

 その上で、僕の考える「議論」とは、そのような、必ずしも結論を出す必要のあるものではない。それは、各々の意見・主張を戦わせるものではあるかもしれないが、自身の主張を「正しい」ものであると論じ、相手を「間違っている」として打ち負かすことが目的ではない。だからと言って、「人それぞれだよね」などと、中立的な立場に甘んじようという話でもない。

 

 「議論」とは、多様な価値観を共有する場所であり、相手の主張から自分の考えもしなかった気付きを得ることで、互いに刺激し合い、自身の意見を強固なものとして昇華させるものである。それが、僕の考える「議論」だ。

 

 ニコニコ大百科における「議論」の説明では、議論を「討論」「議決」「対話」の3つにカテゴライズしているが、これは、その中の「対話」に当てはまるものだろう*2

 

相手の話はしっかり聴きましょう

 ウェブ上での議論を巡る意見を探している中で、非常に興味深い記事を見つけた。そこでは、「ネットで理解してもらえるために大切な簡単な理屈」として、次のようなものが挙げられていた。

 

・態度がいいか悪いか?

 いいひとそうか?そうでないか?生意気なのか?誠実そうなのか?ネットのひとたちはそれを第一に観察する。

 

・どっちの意見が権威あるか?

 ネットのひとたちの大多数はそのひとがいっている内容が正しいか間違っているかちょっと難しくなると判断できないので、だれがいった内容かということを重視する。

 

・自分のもっている意見といっしょか反対か?

 多くのネットのひとたちはある意見について結論が最初から決まっている。自分の意見と同じ側か、反対側かの分類だけをおこなってあとの細かい情報、相手が具体的になにを主張しているかなどは廃棄する。

 

空気で議論するネットのひとたち - はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

 

 あながち、否定できないのが怖いところだ。記事の後半では、そんな彼らの論法をパターン分けして分類しているが、それもおもしろい。「違和感談義」は僕もしばしば利用してしまっているように感じて、思わず苦笑いしてしまった。気をつけよう。

 

 結局のところ、ネット上で行なわれている「議論」的なものの多くは、「互いに意見を述べて論じ合う」というものではなく、好き勝手に自分の主張を声高に叫んでいるだけなのかもしれない。

 相手の主張に耳を傾けないのであれば、それはただの一方的な「主張」に過ぎない。そして、その主張を聴く人もいないのなら、それは確かに「無意味」なものかもしれない。

 

 掲示板にせよ、ブログにせよ、SNSにせよ、ネット上の主張は、思った以上に読まれていないらしい。だからこそ、僕らはそれを「無意味」なものとして、諦めてしまったのだろう。最近ではそれがさらに悪化して、議論どころか、まともなコミュニケーションすら取れていないと感じることがある。なんだかなあ。

 

 そのような中で、そこそこの量のあるまとまった文章を書くこと、読むことが前提となっているブログ界隈では、「無意味」と断じるにはもったいない、おもしろく、味のあるコミュニケーションが行なわれているように感じる。もちろん、ブックマークコメントなどを読むと、「この人、絶対読んでないだろ…」と思ってしまう意見も見かけるけれど。

 過去の経験から、「やっぱり無理!」と言う人も多いかもしれないが、それでも、話を聴く意思のある人は、今もなお、多くいるわけで。ネットでのコミュニケーションが、どんどんと感情的・短絡的になりつつある今、「議論」とまではいかずとも、少しでも良い交流・関係性を持とうとすることには、少なからず意義があるのではないかと思う。

 

おまけ:ブログを軸とした「議論」の提案

 では、ネット上で、そんな対話的な「議論」ができないだろうか。ブロガーが互いに言及し合うということが日常的に行なわれているブログならば、ある程度はできるかもしれない。というか、既にできているかも。

 

 一方で、ネット上には、既に数多くの主張が溢れかえっている。それらは極端なものだったり、汚い罵詈雑言であったりもするけれど、紛れもない誰かの「主張」だ。せっかくだし、どうにか有効活用できないものか。

 

 そのようなことを考えた結果、こんな流れの「議論」はどうだろう、とまとめてみた。

 

1. 問題提起

議論の主軸となるトピックを設定した、問題提起を行なう記事の投稿

 1. 問題提起
   例:「夫婦別姓に賛成?反対?」

 2. 前提と背景
   トピックに関する前提の知識の共有
   例:「夫婦別姓とは」「他国での事例」

 3. 有識者の意見
   その問題に詳しい人の見解(本やブログから)
   例:「法律家はこう語る」「社会学者によれば」

 4. ネット民の意見
   ブログ、掲示板、Twitterなどの、忌憚のない意見

 5. 論点の整理
   それぞれの意見を、論点・立場・価値観ごとに分類、整理
   例:「利便性」「家制度と伝統」「社会生活面」

 6. 問いかけ
   この問題についてどう思うか、読者へ問いかける

 

2. ツッコミ待ち

コメント、ブックマーク、Twitter、ブログなどで、賛成・反対に限らず、意見を出してもらう

 

3. まとめ

いただいた意見・主張を立場ごとに再分類し、最初の記事に落とし込んだ上で、まとめ記事として投稿

ツッコミの段階で、複数人が言及し合うような流れが生まれていれば、それも含めてまとめる

 

 イメージとしては、軸となるひとつの記事があって、それを元に周りの興味関心のある人が意見を発信し、それを受けて記事をまとめ直す感じ。ひとつの記事をきっかけに、その関連の話題が広まることはあるけれど、その流れを意図的に作った上で、最終的に元の記事に還元する形。

 

 ただし、ツッコミがなければ、情報をまとめたキュレーション記事で終わってしまう。あと、最終的な「結論」も出ない。「もともとこのような意見があって、それをまとめたところ、このような意見も出てきました!」で終わり。この過程で、考えることによって、その人にとっての新しい気付きが得られたらいいな、程度のものかもしれない。

 

 さらに、元となる記事、まとめ記事の両方を書くにあたっての労力が半端じゃない。多くの情報を集め、まとめるためのキュレーション能力と、ツッコミとしていただいた意見を付加価値として、落とし込む上での構成技術。時間もかなり必要とするはず。こんなの、よほどの暇人かニートしかできないと思います、はい。

 

 

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*1:大辞林

*2:ニコニコ大百科の記事は、分かりやすく気付きの多い内容となっているものが多く、意外とおもしろい