ぐるりみち。

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「当事者意識」とは?周囲の物事を“自分ごと”として考えるのは難しい

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 「当事者意識を持て」とは、学生や新社会人がよく目上の人間から言われる言葉。しかし一方で、この言葉が指し示すものは時と場合によって違うように感じますし、いったいぜんたい、どこからどこまでが「当事者」になるのだろう?

 

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「当事者意識を持て」という言葉

 会社員時代、ボーナス査定の面談のときに上司からこんなことを言われた。

 

「おまえって、なんか物事を他人事みたいに捉えてるよな」

 

 この言葉こそ、言い換えれば「当事者意識を持て」という文句になるのではないかしら。他人事に捉えている → 自分事として考えられていない → 当事者意識を持て、と。

 この指摘を受けたときは、「マジっすかー? いやー、そんなことないっすよー! HAHAHA!」なんて軽く笑って流したけれど(嘘です、こんな軽かったら怒鳴られます)、そう言われて、思うところがない訳ではありませんでした。

 具体的にどの辺が「他人事みたい」なのかは聞けなかったものの、おそらく自分の他者との接し方が問題なのでしょう。自分の話題――特に怒られたり、間違いを指摘されたり――になると、普段以上に無表情になっている意識があった。目上の人から指摘を受けると、返答も「はい」「ええ」といった簡潔なものになっていた印象があります。

 

 自分としては、別にそれを聞き流しているつもりは一切ないのだけれど……。「そんなところもあったかー」とか「次からは意識して気をつけよう」などと、自分のなかで受け止めてはいたので。ただ、周囲から見れば、流しているように見えたのかもしれない。

 そもそも、僕は泣き虫だ。さすがにこの歳にもなれば自分の感情を抑える術は心得ているし、さすがに人前で泣くようなことはなくなった。それでも強く叱られると、悔しさと情けなさで泣きそうになる。――というか、涙目になってると思う。そのため、必死に感情を抑えるがゆえに、無表情かつ淡白な反応になっている可能性は否めません。

 

 ――ここまでで何が言いたいのかといいますと、その人が「当事者意識」を持っているかどうかというのは、周囲からは窺い知るのが難しい。当たり前ですが。

 周りから見て、明らかにやる気のない人間もそりゃあいるでしょうが、もしかしたら実は裏でむちゃくちゃ頑張っていて、表ではダメ人間を演じ、虎視眈々と機会を窺っているかもしれない。「やっべー、全然勉強してないわー」と言いつつ、テストで高得点取っちゃう系優等生ですね。

 個々人の考えを知るのは難しく、周囲から判別するのは難しい。なればこそ、周りから「当事者意識」を強要することには、少々の疑問を感じたのでした。

 

そもそも「本気になる」なれるかどうか

 それと同時に思ったのが、「本気になる」「当事者意識を持つ」とは言っても、周囲から与えられた基準のなかで行動しなければならないケースは少なくないよね、ということ。

 例えば、受験。あるいは、新卒一括採用の就職活動。これらは「絶対にやらなければいけない」活動ではないものの、日本社会においては大多数の人間が乗っかる、大きな流れであり、ある種の半強制力を伴ったものだと言えます。

 

 翻って、ある活動・物事を大別すると、「周囲(社会)から与えられる」ものと、「自分(個人)から進んで為そうとする」ものに分類することができると思う。そして、その行為者としての人間も、2つのパターンに分けることができる。

 簡潔に表現すれば、「流れに乗れる人」か、「流れを作る人」か。前者は、周りから与えられた課題を「自分ごと」として捉え、行動に移せる人。後者は、周りから課題を与えられてもやる気が出ず抵抗するが、自分がやろうとしたことは取り組める人。前者が会社員タイプで、後者が起業家タイプ――といった感じでしょうか。

 

 でも実際のところは、目の前の活動・物事のひとつひとつに対するにあたって、都度この葛藤が発生しているんじゃないかしら。Aの作業は好きでやる気が出るけれど、Bの作業は苦手でやりたくない――そんなのは、当たり前の感情だ。

 そして、そこで工夫して、苦手な作業をうまくこなせる人もいる。そんな人が「他人ごと」を「自分ごと」にできる人であり、与えられた課題にも「当事者意識」を持てる人だと考えられます。――正直、すごいと思う。

 

 ちょっとごちゃごちゃしてきたのでまとめると、つまり、「本気になる」ために「当事者意識を持つ」と一口に言っても、そもそも人によっては「当事者意識を持てない」活動・物事もあるんじゃないだろうか、という話。

 いくらがんばって努力しようとしても、それが周囲から押し付けられたものであるかぎり、やる気になるのは難しい。それが本当はやりたいことでないのなら、「当事者意識」なんて持てるはずもありません。だって、そもそも「自分ごと」じゃないのだから。

 だからこそ僕は、そんな「他人ごと」を「自分ごと」として置き換えて本気で事に当たれる人はすごいと思うし、尊敬します。

 

己を奮起させる「当事者意識」

 ここまで書いてきて思ったのが、この「当事者意識」って要は、「自分の思うまま好きなように行動せよ」という “推奨” の文句なのかもしれない、ということ。

 「他人ごと」を「自分ごと」として、「当事者意識」を持って行動できる人はそのままでいいと思う。けれど、「やってらんねーこんちくしょー!」なんて荒れている人に「意識が足らん!」とか活を入れたところで、そんなすぐに行動が変わることはないはず。そんなときに「じゃあ好き勝手にやってみろ!」と奮起させるのが、この「当事者意識」なんじゃないかな……と、そう感じました。

 

 

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