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うまくいかない人間関係で「キャラ」を演じることについて

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photo by Fellowship of the Rich

 

 人間関係は、めんどくさいものだと思う。

 

 多くの人は、新しい環境に身を置くとき、どうにかそこで「うまくやっていこう」と考える。この「うまくやる」は、「良い人間関係を構築しよう」ということ。自分の居場所を心地の良いものにするため、他の人と仲良くすることを自然と求められる。

 この「良い人間関係を作る」「仲良くする」ことは、ある意味、「空気を読む」と同義だろう。そのコミュニティや、そこにいる人たち一人一人の持つ「空気」を読み、感じ取り、そこに溶け込む。……改めて考えてみると、まあめんどい。こんなんじゃ、疲れて引きこもるのも仕方がないと思う。

 

 そんな、「空気」と、「関係性」の話。

 

「役割」を持って溶け込む

 進学やクラス替え、就職といった、新しいコミュニティに入るとき。自分の居場所をうまく確保するための手段として、「役割を持つ」というものがある。

 目に見えるものならば、クラスの学級委員とか、係とか。「社会的役割」とも。役割を持てば、その人はそのコミュニティで必要な存在として、最低限の身柄は保証される。そう考えると、小学校の「◯◯係」ってちゃんと意味があったんだなー。

 

 ただし、目に見える役割を持ったからといって、その場の他の人たちとも仲良くできるかどうかは、別問題だ。いじめは、世代とコミュニティに関係なく存在するわけで、要職にある人間が爪弾きにされている場合も少なくない。

 職場において、「良く思われていない上司」なんてものは珍しくないが、その上司は重要な役割を持っているが故に、基本的にはその場から否定されることはない。しかし、その場における周囲からの感情が一定値を超えたとき――例えば、過度なパワハラや責任放棄――場合によっては、職を追われたり、他の場所に移らざるを得なくなることもあるだろう。

 このように、目に見える「役割」はそのコミュニティにおける存在理由となり得るが、それが「良い人間関係の構築」につながるかは別の話だ。外から見てその場に溶け込んでいるように見えても、人間関係では孤立しているなんて、虚しい。

 

「キャラ」という役割

 では、良い人間関係を作り、うまく場に溶け込むにはどうすればいいだろうか。どこに行っても誰からも好かれ、魅力的でリーダーシップのある人間なんて希少種だ。僕ら凡人がそこそこ「うまくやっていく」ためには、どうすりゃいいんだべ。

 ひとつ思いつくのは、「キャラクター」としての役割を演じること。小説や漫画、アニメのキャラクターで考えてみればいい。

 例えば、『ズッコケ三人組』の3人。ハチベエは行動力があるが飽きっぽく、スポーツ万能だが勉強は苦手。ハカセは頭脳明晰で口も達者だが上がり症で、運動は苦手。モーちゃんは大らかで優しいが、のんびり屋で遅刻の常習犯。性格が正反対のハチベエとハカセの間を取り持っている。

 

 

 彼らのように、それぞれの個性が活かされ、しかも悪い部分は補い合えるような関係性は、まさに理想とされるところだ。――が、現実では難しい。長所も短所も含めて良い具合に「うまくいく」人間関係もあるが、どこかしらで尖った個性がぶつかったり、そりが合わなかったりすることは当たり前にある。

 それならばいっそ、「キャラを演じちゃえ!」というのもひとつの手だ。ある集団では、おちゃらけ系がいないからピエロを演じる。あるコミュニティでは、真面目君がいないからしっかり者であろうとする。あるところでは、弄られキャラがいないから弄られることに徹する。などなど。

 ボケかツッコミか、という2択ではないが、その場におけるキャラを演じる、という点では似たようなもの。「空気を読む」のが得意とされる日本人。自然とこれを行なっている人は、意外といるんじゃないかと思う。

 

個人対個人

 とは言っても、そんな器用に演じ続けられる人間も多いわけではなく、必ずどこかで綻びが出てくるもの。その場その場で求められるキャラを使い分けてきた結果、「自分」を見失ってしまった、なんてケースも考えられる。「『本当の自分』ってなんだろう」と考えてしまう人は、もしかしたらその傾向にあるのかもしれない。

 自分がそれをずっと演じられないと分かっている人間は、どこかの段階で自然とそれをやめているような印象がある。その集団に慣れて、関係性が固まってきた頃に、「そういえば最近キャラ変わったよね―」なんて言われている人は、もしかしたら変わったんじゃなく、演じていただけなのかも。

 

 「キャラ」を演じれば、ある程度は、そのコミュニティで「うまくやっていく」ことができるだろう。でも、疲れる。疲れて、ぶっ壊れたら元も子もない。

 ここまで考えて、「そもそもの前提が間違っているんじゃね?」と思った。「場」というコミュニティに早く溶け込もうとする余り、その「場」にいる個人個人とのコミュニケーションを怠っていないか、と。

 

 「空気を読む」「同調圧力」なんて言葉が度々取り上げられるあたり、僕らは「場」というものに縛られ過ぎなんじゃないかと思う。ムラ社会としての集団を第一に考え、そこにいる一人一人の感情や考えが後回しにされていないだろうか。

 確かに、社会生活を送るにあたって、何らかのコミュニティに所属することは避けられないし、そこに同調して「うまくやる」ことは大切だ。仲間はずれにされるのは嫌だし、一人で生きていくのは難しい。

 でもだからと言って、その「場」に固執するあまり、一対一の人間関係を疎かにしたり、自分の感情や考えを蔑ろにするのは違うと思う。だって、にんげんだもの。感情を殺して、目に見えない「場」を一番に考えて生きるなんて、もったいないじゃない。

 

 最初の「人間関係をうまくやる」という主旨から論点が少しずれてしまったが、あまりに「うまくやろう」と、溶け込むことを気にし過ぎて、自分を見失うのは、アホらしいからやめた方がいい。

 キャラを演じるのも程々に。ある程度は演じて身体が温まってきた頃に、信頼できると感じた人たちに自分の素っ裸を見せつけてやればいいのだ。人間関係を作るって、そういうこと。少しずつお互いに自己開示を重ねていって、仲良くなる。急に全裸で迫られたら、誰だって引きますよ、そりゃあ。最終的には、葉っぱ一枚あればいい。

 「キャラ」によるコミュニケーション云々という話題は、考えていて自分でもちょっと気になったので、関係してそうな本でも探してみようかと。ググってみた感じだと、荻上チキさん、宇野常寛さん、東浩紀さん周辺の著作が関係あるのかな。何かおすすめがあったら教えてくださると喜びます。

 

 

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